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江戸時代に仏門に入ったカッパが住んでいたという池と、その墓が残る寺。天保の飢饉のころ、人々が苦しんでいる横で相撲をとっていたカッパたちに、当時の住職が仏法を説いた。「千年生きている我々に文句を言うな」と最初はくってかかったカッパだったが、仏法の貴さに心を打たれ仏門に入る。その後、寺の池に住み、火事や水難から守ったとの言い伝えがあり、火難・水難除けのお守りもある。
慶應義塾の基本精神であり、福澤諭吉の代表的な言葉である「独立自尊」が刻まれた碑。明治37年(1904)、瀬戸内海の小豆島で採掘した花崗岩を使用し、中津公園内に建造。中津市指定文化財に登録されている。
天正18年(1588)、黒田官兵衛孝高(如水)が、山国川河口の地に築城し、その後、細川家、小笠原家と続き、享保2年(1717)から奥平家の居城となり、廃藩置県まで統治した。奥平家は産業振興、蘭学振興等を行い、前野良沢[まえのりょうたく]や福沢諭吉等を輩出する土壌となった。現在の城は、昭和39年(1964)に奥平家が中心となって中津市民の協力のもと、再建したもので、五層の天守閣と二層の櫓からなっている。内部は歴史資料館となっており、徳川家康拝領の白鳥鞘の鑓や歴代当主の甲冑や古文書等数多くの奥平家所蔵の品々を展示している。
唯一残っていた「中津和傘」の職人が廃業したことを知り、江戸時代から受け継がれてきた伝統を復興させようと、地元の有志数名で立ち上げた工房。昔ながらの製法を守り、番傘2万2000円~や蛇の目傘3万800円~などを製作販売する。なかでも日傘は女性に人気。伝統を守りつつ、時代に合う新デザインも考案している。作業工程の見学も可能だ。
職人の町として栄えた、新魚町にある中津藩主・奥平氏の菩提寺。境内にある大雅堂では、江戸中期の南画の大家・池大雅が残した書画47点を保存・展示している。心身ともに充実していた42歳ごろの作品で、これだけの作品が一堂に集まっているのは全国的にも珍しい。1階では寺の宝物を企画展示している。
明治の偉人、福澤諭吉が17~19歳まで過ごした木造茅葺きの旧宅(史跡)と、諭吉が勉学に励んだ土蔵が現存。記念館内では、『学問のすゝめ』の版本や数多くの遺品を展示している。所要30分。
天正15年(1587)、黒田孝高[よしたか]によって建立。深紅に塗られた壁は城下町・中津の中でもひときわ強烈な印象を与え、別名・赤壁寺とよばれる。豊臣秀吉の時代、豊前の実力者だった宇都宮鎮房[しげふさ]が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたという。柱には当時の刀傷も残り、家臣たちの無念と悲しみが壁の血痕を何度も浮き出させたと伝えられている。
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