
石火矢町ふるさと村
臥牛山麓から南に延びる通りの両側に、武家屋敷の白い土塀が続く武家屋敷通り。明治維新以後150年以上になる現在も、屋敷町としての面影を色濃くとどめている。この町並みと紺屋川筋の美観地区が、石火矢町ふるさと村に指定されている。
- 「備中高梁駅」から徒歩21分
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臥牛山麓から南に延びる通りの両側に、武家屋敷の白い土塀が続く武家屋敷通り。明治維新以後150年以上になる現在も、屋敷町としての面影を色濃くとどめている。この町並みと紺屋川筋の美観地区が、石火矢町ふるさと村に指定されている。
近代化遺産に指定されている吉岡(吹屋)銅山の坑道の一つ。戦国時代から銅山として知られ、昭和47年(1972)まで黄銅鉱と磁硫鉄鉱を産出した。約320mにわたって坑道が復元され、江戸時代の手掘りの跡が残る内部を見学できる。
市街地北端の臥牛山に築かれた山城で、美濃の岩村城、大和の高取城とともに日本三大山城の一つ。今も山上には堅牢な石垣がそびえ威風堂々たる佇まいだ。天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、国の重要文化財に指定されている。現存天守の中で唯一の山城で標高430mにあり、二の丸からは高梁市街の景色を見下ろせる。天守1階には囲炉裏と装束の間が、2階には御社壇がある。天守裏から通じる二重櫓は2層2階建ての構造で高石垣も圧巻。雲海が出る時期は9月下旬~4月上旬の明け方から8時頃まで。特に10月上旬~12月上旬の朝と日中の気温の差が大きい場合に濃い朝霧ができる。
天保年間(1830~43)に建てられた漆喰壁をもつ屋敷。母屋は格式のある書院造。中庭の池や庭石、踏み石などは当時のまま残っており、その中庭に面して資料館がある。
江戸末期、銅山とベンガラの原料となるローハの製造で巨万の富を築いた豪商の邸宅。城郭を思わせる立派な構えに当時の繁栄ぶりがうかがえる。2階建ての母屋、3棟の土蔵、桜門、長屋、石垣は文化2年(1810)の建築。庭園には水琴窟もある。映画『八つ墓村』のロケ地になったところとしても有名だ。ベンガラ館から広兼邸へ行く途中には、笹畝坑道[ささうねこうどう]があり、銅山を掘った跡もみることもできる。
昭和46年(1971)までベンガラ製造を続けた片山家(胡屋)の屋敷。銘木をふんだんに用いた座敷や、通り土間に面した店の間、台所などがある2階建ての母屋と、ベンガラ製造の作業場や蔵が、国の重要文化財に指定されている。
国の重要伝統的建造物群保存地区となっている吹屋ふるさと村にある郷土館。明治12年(1879)に建てられた吹屋商人の代表的な屋敷を利用しており、2階建ての妻入り入母屋造りで、塗込造りの壁やベンガラ格子からは宮大工の仕事ぶりがうかがえる。館内では当時の生活史料などを展示している。
成羽町の中心から北へ約15kmにあり、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。江戸時代から明治にかけて銅とベンガラで栄えた町。メインストリートにあたる吹屋街道沿いには、ベンガラ格子と赤銅色の石州瓦が印象的な商家・町屋が約400mにわたって軒を連ねており、周辺には銅山坑道跡などもありみどころが多い。
江戸時代中期から後期にかけて、近習役や番頭役などを務めた武士の住宅。松山城下の武家屋敷としては寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りで、市の重要文化財に指定されている。
高梁の美観地区として、ぜひ訪れたいスポット。高梁川に流れ込む伊賀谷川に沿い、桜と柳の美しい並木が続く。この伊賀谷川はもともと備中松山城の外堀だったもの。橋のたもとには石灯籠や恵比寿神社があり、藩校有終館跡や岡山県下最古の高梁基督教会堂といった見どころも川沿いに多数立ち並ぶ。
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