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和泉市と泉大津市にまたがり、弥生時代の集落跡が発掘された池上曽根遺跡。中心部の約11.5haが国の史跡に指定され、一部が史跡公園として公開されている。復元建物として大型掘立柱建物、竪穴式住居などがある。
続日本100名城に選ばれた岸和田市のシンボル。伝承では、建武新政期に楠木正成の一族・和田高家が築いたといわれている。寛永17(1640)年に岡部宣勝が入城し、以降明治維新まで岡部氏13代が統治した。文政10(1827)年に5層の天守が落雷で焼失。現在の3層の天守閣は、昭和29(1954)年、戦後の復興天守の先駆けとして建造された。重森三玲によって作庭された岸和田城庭園(八陣の庭)は、天守閣はもとより上空からの俯瞰的鑑賞を意図して設計された独創的なデザインで、国の名勝に指定されている。
堺旧港の南波止場に明治10年(1877)に建造された白亜の灯台。高さ約12mの六角錐形の木造洋式灯台で、木造洋式灯台としては国内屈指の古い灯台。江戸中期に造られた和式の灯台から7期目となる灯台で、堺市民の寄付などにより、イギリス人技師のビグルストーンが設計、岡山の石工・継国真吉が石積みの土台を、堺の大工・大眉佐太郎が建築工事を施工した。周辺の埋め立てが進み、昭和43年(1968)にその役割を終えたが、現在は国の史跡に指定され、堺市のシンボルの一つとして、夕日のスポットとして親しまれている。
吉宗が紀州藩主だった正徳2年(1712)に設置された鐘楼。2階部分に吊り下げられた鐘は、大坂夏の陣で豊臣方が使用した大砲を利用して鋳造したものと伝えられている。
和歌山城は天正13年(1585)、豊臣秀吉が弟秀長に命じて築城し、藤堂高虎らが普請した。桑山、浅野の時代を経て元和5年(1619)、徳川家康の10男・頼宣が入城。明治の廃藩置県まで徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城として使われた。岡口門(重要文化財)と紀州の青石を使った野面積みの石垣などは当時のもの。戦後復元された天守閣は刀や鎧等の展示室を備え、紀ノ川の眺めがすばらしい。西之丸庭園は名勝に指定されており、紅葉が見事な事から紅葉渓庭園とも呼ばれる。
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