
南内郭・物見櫓
吉野ケ里歴史公園の環壕集落ゾーン南内郭にある櫓。弥生時代の人々の知恵と力を結集して造られた床高6.5m、高さ12mの巨大櫓は、穴を開けた大木を組み立てて造られたもの。周囲には小さな集落や米作りに適した土地があり、敵対する「クニ」が進入してくるのを監視する為に使用されたと考えられている。
- 「神埼駅」から徒歩23分/「吉野ケ里公園駅」から徒歩24分
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吉野ケ里歴史公園の環壕集落ゾーン南内郭にある櫓。弥生時代の人々の知恵と力を結集して造られた床高6.5m、高さ12mの巨大櫓は、穴を開けた大木を組み立てて造られたもの。周囲には小さな集落や米作りに適した土地があり、敵対する「クニ」が進入してくるのを監視する為に使用されたと考えられている。
履物商を営んでいた初代久富亀一が、大正10年(1921)に建てた「履物問屋 久富商店」。建物裏に作業所があり、ここで下駄の製造が行われた。後に、大分県日田市や朝鮮半島へ販路を広げて事業を拡大し、県下でも有数の大きな履物問屋となった。館内に掲げてある木製の看板には、右から左に「履物問屋」と横書きされおり当時を偲ばせる。現在は、建物内をリノベーションして、カフェや写真館、組紐店、ミニギャラリー、ステンドグラス工房などが営業。町歩きが楽しめるレンタル着物店が人気だ。
吉野ケ里歴史公園の環壕集落ゾーン北内郭にあるクニの祭事や政治の中枢であった所。高さ16.5m、床高4.5mの弥生時代最大級の3階建ての建物。2階は、ムラの長や支配者たちが重要な事柄を話し合う集会場、3階は最高司祭者が神(祖先の霊)の声を聞いて、その結果を支配者たちに伝える儀式が執り行われていたと考えられている。
吉野ケ里歴史公園の環壕集落ゾーン内にある。支配者層が住んでいた場所と考えられ、4棟の物見櫓と10棟の竪穴住居が復元されている。実際にはそれ以上の建物があったと考えられている。
国の特別史跡「吉野ヶ里遺跡」は弥生時代最大規模の環壕集落を復元し整備した公園。神埼市・吉野ヶ里町にまたがり、多数の竪穴住居跡や高床倉庫跡、甕棺墓[かめかんぼ]などが復元され、『魏志倭人伝』に記述された邪馬台国を彷彿とさせる景色が広がる。見学できるのは、南内郭・北内郭・倉と市・北墳丘墓、展示室など。高さ10m以上の物見櫓、直径40~50cmの柱を16本使った巨大な主祭殿など、その規模に驚かされる。園内では「勾玉づくり」などの体験プログラムを開催し、遊具や芝生広場なども備えている。
吉野ケ里歴史公園の環壕集落ゾーン南内郭横にある展示室。出土品をぜひとも自分の目で見てみたいという人はここへ。ここでは、稲穂を摘む石包丁、食料貯蔵用の素焼きの土器などの日常使われていた道具から、位の高い人が葬られた墳丘墓から出土した管玉[くだたま]などのアクセサリー類まで展示品は100点以上。実際に出土したものや復元された模型などが展示されている。
江戸中期の寛政年間に佐賀藩の命を受け、初代森永十助が煙草[たばこ]の製造を始めたと伝えられている。明治期には、森永作平によって製造された煙草「富士の煙」が、当時東京で人気だった「天狗」より香りがよいと評判を呼び、佐賀の名物のひとつに。煙草専売化に伴い呉服店へと転じ、昭和9年(1934)まで呉服店を営んでいた。現在は、「森永呉服店」の看板が残る北蔵には和紅茶専門店、居宅には鍋島緞通手織工房、南蔵には手仕事の工芸品店の3つの個性的な店が、建物の風情を活かして営業している。
佐賀藩の支藩、鹿島藩2万石の居城跡。築城は文化4年(1807)で、現在、城門(赤門および大手門)が残りともに県重要文化財に指定されている。このほか、石垣や掘が当時の面影を伝えている。城跡一体は旭ケ岡公園として整備されている。
江戸時代から長崎街道の宿場町として栄えた肥前浜宿。酒造りが盛んで、古い酒蔵が立ち並ぶほか、白壁や茅葺の民家など、歴史的な建物を保存。古き良き時代の雰囲気を今に伝える。
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