
高野長英旧宅
幕末の蘭学者・高野長英が幼少の頃過ごしていた旧宅。国指定史跡。明治9年(1876)に改装され、2階があげられているが、主座敷(8畳)と次座敷(6畳)の2室は、当時のまま保存されている。外観は自由見学可。主座敷と次座敷の見学は、5名以上で1週間以上前に電話予約必要。予約先:奥州市武家住宅資料館0197-22-5642。
- 「水沢駅」から徒歩11分
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幕末の蘭学者・高野長英が幼少の頃過ごしていた旧宅。国指定史跡。明治9年(1876)に改装され、2階があげられているが、主座敷(8畳)と次座敷(6畳)の2室は、当時のまま保存されている。外観は自由見学可。主座敷と次座敷の見学は、5名以上で1週間以上前に電話予約必要。予約先:奥州市武家住宅資料館0197-22-5642。
中尊寺東方の高館は、藤原秀衡を頼って落ち延びた源義経の館があった場所。山頂の義経堂には、義経公の尊像が安置されている。芭蕉が「夏草や兵共が夢の跡」と詠んだ地でもあり、入口の階段を上った右側には芭蕉や曽良[そら]の句碑が立つ。眼下に衣川、北上川も眺望できる。春から初夏にかけてはツツジが美しい。
政治家として近代化に貢献した、後藤新平の家。生前に、「水沢には墓をつくらないから墓代わりにあの家を長く残しておけ」と言い残したという。江戸中期の下級武士の住居として貴重なもの。奥州市武家住宅資料館の近くにある。所要30分。
宮沢賢治が教鞭をとっていたころの花巻農学校の跡地にある公園。『風の又三郎』の一場面を題材にした黒御影石の彫刻が立ち、賢治が好きだったぎんどろの木が植えられている。車で来館の場合は花巻市文化会館駐車場(約400台収容)が利用できる。
藤原秀衡[ひでひら]が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって建てたという寺院の跡。平等院よりも大きかったと言われるが、火災で消失してしまった。ここから中尊寺へ向う前に4~5分東へ道をそれると、奥州藤原氏時代の政庁であった平泉館跡といわれる柳之御所遺跡(史跡)[やなぎのごしょいせき]がある。
毛越寺境内に2代藤原基衡が造園した、日本最古の浄土庭園。州浜や築山、出島石組と池中立石が配された大泉ケ池を中心に、浄土を地上に表現したといわれる。平安時代の作庭様式を伝える貴重な遺構の遣水は、池に水を取り入れるための水路。玉石を底に敷きつめ、水の曲がり角や池への注ぎ口には石組みが配されている。毎年5月第4日曜、平安貴族の装束をまとった歌人たちが遣水に盃を流し、和歌を詠む曲水の宴が優雅に行われる。国特別史跡、特別名勝。世界遺産。
藤原基衡[もとひら]の妻が建立した寺院跡。境域は東西120m、南北約180mで西域に土塁の一部が残る。浄土庭園には大・小の阿弥陀堂が建っていた。現在ではその跡に発掘に基づいて舞鶴ケ池が復元され、史跡公園として整備されており、憩い場として親しまれている。
伊達政宗公が豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟を、2代藩主忠宗公が江戸より移築したもの。歴代藩主が納涼・観月の場とした観瀾亭は「月見御殿」とも呼ばれており、秋には毎年お月見会を開催。室内の極彩色の障壁画は重要文化財に指定されている。
国府多賀城の南東約1kmに位置し、多賀城の付属寺院として建立されたといわれている。伽藍配置は太宰府(福岡県)の観世音寺に類似している。寺院の名称は不明だが、昭和58年(1983)に出土した土器の墨書きから、「観音寺」ではないかといわれている。
多賀城南門跡のすぐ近くに立つ。高さ約2m(地上部分)、最大幅103cmの奈良時代の石碑で、当時の主要な国界から多賀城までの距離、大野東人[おおののあずまひと]が多賀城を創建したことなどが刻まれている。群馬県多胡碑[たごひ]、栃木県那須国造碑[なすのくにのみやつこのひ]とともに、日本三古碑の一つに数えられる。国の重要文化財に指定されているほか、日本遺産にも認定されている。
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