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昭和に再建された追手向櫓および追手門
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秀長が百万石を治めた城の石垣に、栄華を偲ぶ
大和郡山のシンボルとして親しまれる。天正8年(1580)に筒井順慶[つついじゅんけい]が築城。豊臣秀長時代の大増築に際し紀州根来寺[ねごろじ]の大門を移築、平城京羅城門の礎石や石仏、五輪塔までかき集めて豪壮な石垣が築かれた。今も天守台の北面で逆さまに積まれた地蔵が見られる。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳澤家十五万石の城下町として栄えた。明治時代に城郭は壊されたが石垣や堀が残り、追手門、東隅櫓[ひがしすみやぐら]、追手向櫓、多聞櫓[たもんやぐら]が復元されている。本丸に登城する正式な橋とされる「極楽橋」も完成。桜の季節にはお城まつりで賑わう。