
一草庵
山口県生まれの自由律の俳人、種田山頭火の終の住処。山頭火の句にちなんだ樹木が植えられた庭には、4基の句碑が立つ。1年を通して庵の外観見学は自由。庵に隣接した休憩所には、山頭火に関する資料を展示。
- 「赤十字病院前駅」から徒歩12分/「鉄砲町駅」から徒歩12分
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山口県生まれの自由律の俳人、種田山頭火の終の住処。山頭火の句にちなんだ樹木が植えられた庭には、4基の句碑が立つ。1年を通して庵の外観見学は自由。庵に隣接した休憩所には、山頭火に関する資料を展示。
慶応3年(1867)、子規は正岡常尚の次男として花園町のこの地で生まれる。通称のぼる。翌年湊町新町に引っ越した。母・八重は、子規の赤ん坊の時のことを、丸い丸い顔で鼻が低い低い妙な顔と話していたという。
松山藩士の文武稽古所として建てられた藩校の講堂が保存されている。史料館では子規、秋山兄弟らの書簡や書画、試験の成績表など興味深い品々を収蔵。学校の敷地内にあることから、授業や学校管理の許容範囲内で見学となる。
堀之内にあった松山歩兵第二十二連隊の歩哨舎が移設されている。第二十二連隊の忠魂碑もある。秋山好古が揮毫した「天壌無窮」(天と地と共に永遠に続く)の碑も。平成29年(2017)正月より、墨絵アーティストとして著名な茂本ヒデキチ氏作、奉納の干支、開運大絵馬(縦2.8m×横3.5m)を境内に設置している。大絵馬の前では記念撮影等の参拝者で賑わっている。平成30年(2018)4月より、遺族から奉納された遺影・遺品等を転じしている「祈念史料室 みゆき」を開設。
加藤嘉明が築城の際、寺町をつくるため、旧城下の松前町から移した浄土宗寺院。江戸時代後期につくられた庭園は風情豊か。秋の紅葉時の庭園は見応えがある。境内には正岡子規、松尾芭蕉、種田山頭火等の句碑がある。
俳句雑誌『ほととぎす』は、明治30年(1897)、子規の友人の柳原極堂によって創刊された。子規のすすめた俳句革新をバックアップし、20号まで発行。のちに高浜虚子が跡を継いだ。
小林一茶とも交友のあった、江戸時代の俳人・栗田樗堂が寛政12年(1800)に市中の隠を楽しむために結んだ庵。昭和24年(1949)に愛媛県の史跡に指定、平成12年(2000)から3年間かけて改修・復元された。庭園内の樹齢200年を超すというノダ藤の見頃は4月下旬。
司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公で松山出身の秋山好古・真之兄弟や正岡子規の足跡、明治時代の日本の様子などを紹介する、フィールドミュージアム構想の中核施設。3階展示室では近代国家へと歩み始めた明治時代を年表や映像などで紹介。4階展示室では毎年テーマを変えて、一年間を通して企画展を開催している。2階には、入館無料でカフェや読書を楽しめるライブラリー・ラウンジも。通路のスロープを登りながら安藤忠雄設計のユニークな建築も鑑賞しよう。※遼太郎の遼は正式には二点しんにょう。
末広学校は正岡子規が最初に入った寺子屋式の小学校で、のちに智環学校と名前が変わる。かつては正岡家累代の墓があったが、昭和2年(1927)に正宗寺に移された。年末の除夜の鐘は自由に参加できる。その後、新春祈祷のおつとめにも参加可。
小説では、中ノ川は、川幅2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。
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