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藤井寺の地名の起源になった古刹。西国三十三カ所第5番札所。百済の辰孫王の子孫である、葛井連の氏寺として創建。我が国最多の1043本の手をもつ、本尊の千手千眼観音菩薩坐像は国宝に指定されている。脇侍の地蔵菩薩像と聖観音像も安置。毎月18日に開帳(料金:500円、時間:9時~16時30分)され、多くの参拝者で賑わう。
藤井寺市の南部、古市古墳群にある5世紀前半築造と推定される前方後円墳。一重の周濠の後円部側は埋め立てられており、墳丘を挟むような周濠の形が和鋏に似ていることから「鋏塚」の名もある。墳丘は長さ103m、後円部の径60m、高さ9.5m、前方部の幅66m、高さ9.1m。墳丘からは円筒埴輪や形象埴輪が出土している。世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一つで、国指定史跡でもある。道を隔てた南側の前方後円墳の野中宮山古墳とは、その位置から密接な関係があったと考えられている。
古市古墳群の西端に位置する前方後円墳で、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一つ。墳丘長は245m、後円部の径148m、高さ19.5m。築造は5世紀後半。室町時代の山城築城と江戸末期の大規模修復などで墳丘は大きく改変されている。墳丘を囲む周濠の外側には円筒埴輪が出土した周堤があり、古墳の総長は約410mにもなる。埋葬施設の詳細は不明だが、墳丘形状から横穴式石室がある可能性も。被葬者も不明だが、宮内庁が第14代仲哀天皇の「恵我長野西陵」として治定。後円部北側に陪塚と見られる国指定史跡で墳丘長60mの前方後円墳、鉢塚古墳がある。
聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられる飛鳥時代の寺。俗に「中の太子」と呼ばれ、河内三太子のひとつに数えられる。建物は法隆寺式伽藍配置だが兵火に襲われ、現在の本堂は江戸初期に再建されたもの。白鳳期の弥勒菩薩半跏思惟像と鎌倉期の地蔵菩薩像はともに重要文化財。毎月18日が拝観日。
古市古墳群の北端に位置する前方後円墳。築造は4世紀後半。墳丘長は210mで、築造時には二重の濠と堤があり、現在宅地となっている外側の周濠を含めると全長は約400mに。「城山」の名は戦国時代に古墳上に城が築かれたことから。明治末期に後円部から竪穴式石槨と長持形石棺が発見され、銅鏡や勾玉、刀剣などが多数出土。内濠から出土した水鳥形埴輪は国指定重要文化財だ。被葬者は不明で、後円部頂のみ宮内庁が「藤井寺陵墓参考地」として治定。国指定史跡で、世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」の構成資産の一つ。墳丘内に津堂八幡神社、内濠跡に花しょうぶ園、菜の花やコスモスが咲く津堂草花園もある。
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