
銀の時計
太閤通口からすぐの中央コンコースに立つ銀色の時計。新幹線改札口のすぐ目の前にあるので、遠方から来た人との待ち合わせにおすすめ。
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太閤通口からすぐの中央コンコースに立つ銀色の時計。新幹線改札口のすぐ目の前にあるので、遠方から来た人との待ち合わせにおすすめ。
桑名宿は東海道五十三次の42番目の宿場。桑名藩の城下町でもあり、江戸後期には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒が立ち並ぶ大きな宿場だった。熱田神宮のある熱田宿とは伊勢湾の海路・七里の渡しで結ばれ、桑名の渡船場は伊勢神宮への入口としても賑わった。現在、七里の渡跡には伊勢神宮一の鳥居と常夜灯が立ち、近くには復元された航海の守護神を祭る蟠龍櫓や、旅館として営業している大塚本陣跡、脇本陣跡などが残る。七里の渡跡から桑名城跡(九華公園)の外堀沿いや街中を通る東海道を散策すれば、「歴史を語る公園」や道標、矢田立場などに往時の宿場町の面影が感じられる。
揖斐川河口、東海道の渡場跡。かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいた。現在も伊勢国の東の玄関口として「伊勢国一の鳥居」がたっている。
聖武天皇の命を受け、行基が天平13年(741)に開いた国分寺、国分尼寺があった場所。国の史跡に指定されている。かつて南大門などが立っていたが、戦国の騒乱でほとんど焼失。現在は講堂の礎石の一部が残るのみ。隣接の鈴鹿市考古博物館で歴史的背景を理解し、ここを眺めると感慨ひとしおだ。
慶長6年(1601)、徳川四天王の一人で、初代桑名藩主となった本多忠勝が、城下町割とともに城郭の拡張整備を行った。桑名城はかつて「扇城」「海道の名城」と称されたが、戊辰戦争の折に幕府方についたため、明治維新後に壊され現存しない。城跡は、昭和3年(1928)に九華公園として整備され、桜やツツジなどが美しく、市民の憩いの場として親しまれている。また園内には松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公)を祀る鎮国守国神社があり、付近には復元された蟠龍櫓(航海の守護神である龍の瓦を頂く二層の櫓。歌川広重『東海道五十三次 桑名』にも描かれた)がある。ペットは放し飼いにせず、マナーを守って利用。
昔、街道の一里ずつに木を植え、道程の目印にしたのが一里塚。野村一里塚は県下12カ所の一里塚のなかで唯一現存し、樹齢400年のムクの巨木が植えられている。国指定の史跡。
関宿のお隣・亀山宿は、亀山城のお膝元で、城下町として繁栄した。関宿ほど往時を偲ばせる町並みは残されていないが、武家屋敷跡などで面影にふれることができる。
天正18年(1590)に岡本良勝が築いた城。かつては5つの曲輪があり、櫓や門が立ち並んでいた。現在は石垣の上に多門櫓を残すのみだが、美しい石垣に往時の姿が偲ばれる。多門櫓は約1年半に及ぶ「平成の大修理」を経て、江戸時代後半の姿に復元された。また三重県内で唯一残る江戸時代の城郭建造物として、三重県史跡及び三重県有形文化財建造物に指定されている。
川口町にある七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元。かの有名な歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。
山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代諸戸清六の新居として、大正2年(1913)に建てられた邸宅を公開。鹿鳴館を設計したイギリス人、ジョサイア・コンドル設計の洋館と、それに連なる和館は国の重要文化財で、その前に広がる池泉回遊式庭園も国の名勝指定を受けている。
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