
松下村塾
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
- 「東萩駅」から徒歩15分
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松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
菊ヶ浜の東にある高さ3m、幅12m、長さ50mほどの土塁。文久3年(1863)5月の攘夷決定の日、長州藩は下関の馬関[ばかん]砲台から外国船を砲撃したが、大反撃を受けて敗退。地元への報復を恐れた藩は、菊ヶ浜に土塁を築いた。現在残るのはその一部。築塁には留守を守っていた多くの女性が参加したため「女台場」とよばれている。
高杉晋作没後90年を記念して造られた備前焼の陶像が関門海峡を見わたすように建っており、桜の名所としても知られている。車で近くまで行けるが、長くて急な階段を登りきって眺めると感動も増す。
萩藩の大組士佐世彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、24歳の時に松下村塾へ入門した前原一誠の旧宅。尊皇攘夷運動に参加した前原は後に萩の乱を起こしたが、鎮圧され悲運の最期を遂げた。旧宅は当時のままで、現在も住居として使われているので見学は外観のみ。墓は近くの弘法寺にある。
藩主の御座船[ござぶね]を格納した倉(史跡)。玄武岩を積んだ壁に本瓦葺きの屋根をのせた、梁間8.8m、桁行27m、高さ8.8mの堂々たる建物だ。現在は川から約130m離れているが、かつてはこのあたりまで松本川の河畔だったという。
山県有朋は天保9年(1838)に生まれ、松下村塾に学び、高杉晋作率いる奇兵隊に参加、軍監となり頭角を現して、数々の戦いで戦功を立てる。明治維新後は陸軍大輔となって近代陸軍の基礎づくりに尽力。後に明治政府の高官となり、首相2回、枢密院議長などを歴任した。誕生地である橋本川畔の一角に、大きな石碑が立っている。
藍場川沿いにある藩政時代の武家屋敷。庭園の池に引き込んだ川の水を、さらに台所と風呂場の「ハトバ」(階段を設けて水に近づけるようにした場所)に流し入れて洗いものや入浴に利用するなど、典型的な藍場川沿いの家の水の利用法が見られる。
敵を迷わせ、あるいは追いつめやすいように工夫して造られた鍵曲。別名「追廻し筋」ともよばれ、道が鍵の手に曲がり、左右を高い土塀で囲むなど見通しが悪くなっているのが特徴だ。藩政時代に多くの重臣たちの邸宅があった堀内や平安古などで見られる。一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、近くに国の重要文化財の口羽家住宅がある堀内エリアの鍵曲は、道がカラー舗装されているため、往時を彷彿とさせる。
萩出身で総理大臣も務めた田中義一の別邸。遺品を展示する母屋や増築された五松閣を公開。元々は江戸時代の毛利筑前下屋敷で、明治以降は士族救済で夏みかん栽培を勧めた萩藩士小幡高政の屋敷だった。
敵の侵入に備えて道を鍵の手にし、両側を高い塀で囲んだ平安古の鍵曲。堀内地区の鍵曲と並んで、重要伝統的建造物群保存地区に指定。現在も武家屋敷や長屋門などが残り、当時の面影をよく伝えている。橋本川沿いのこのエリアも夏ミカンの木が多く、土塀の上から顔を除かせる黄色い実が古い町並みによく似合う。近くにある元内閣総理大臣・田中義一氏の別邸は、明治時代に夏ミカンの栽培を奨励した小幡高政の屋敷だった。ボランティアガイドが常駐しているので、夏ミカンの歴史なども聞いてみよう。
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