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寺は山の中腹にあり、仁王門から333段の石段を上ると本堂が、さらにその先、大塔へ続く。切幡の名は、機織り娘の伝説に由来。弘法大師が巡錫中の弘仁6年(815)、衣が傷んだので娘に繕いの布を求めると、織っていた布を惜しげもなく切り取ってくれた。その礼に娘の願いを聞き、亡き父母のために一夜で千手観音像を刻み、娘に灌頂を授けると、娘は観音菩薩の姿に変わったという。本堂には本尊の千手観音のほかに、機織り娘が即身成仏となった観音(秘仏)も安置されている。
弘法大師が刻んだとされる本尊の釈迦如来像は、八十八カ所中ただ一つという涅槃像で、珍しい寝姿の仏像が祀られている。大師が白蛇と出合って開基したとの縁起から、もとは白蛇山・法林寺と号し、約3km離れた山麓にあった。長宗我部勢の兵火で焼失、土石流の影響もあり、正保年間(1644~48)現在の地に移された。安政6年(1859)、光明堂から発した火により、楼門を残して全焼。現在の本堂や大師堂などは明治時代に再建されたもの。のどかな田園の中にあるため、「田中の法輪さん」とよばれている。
中国風の鐘楼門をくぐり石段を上ると本堂が、その左手の石段を上ると大師堂がある。人間がもつ生・老・病・死・怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦という八つの苦しみを阿弥陀如来の慈悲により乗り越え、極楽浄土の十の楽しみを得られるようにと、十楽寺と名付けられた。3kmほど離れた十楽寺谷堂ケ原で弘法大師が阿弥陀如来を感得し、尊像を刻んで開基したと伝える。大伽藍を誇る大寺院であったが、天正年間(1573~92)の長宗我部勢の兵火で焼失。寛永年間(1624~44)に現在地に再建。本尊だけは焼ける本堂の中から住職(真然)が背負って逃げたため無事で、創建時より伝わる大変貴重なもの。
御詠歌にあるように、薪をとり谷の水を汲む難行を熊野修験者がこの地で行っていたのが寺の起源といわれる。寺伝では、弘仁年間(810~824)、弘法大師が奥地にある閼伽ケ谷で修行していた時、熊野権現が現れ、1寸8分(約5cm)の金の観音像を授けたとする。弘法大師は一刀三礼して霊木に等身大の千手観音を刻み、その頭髪の中へ仏舎利を入れ、金の観音像を胎内へ納めた後、堂宇を建て安置した。本尊は昭和2年(1927)の火災で本堂とともに焼失、現在の本尊は昭和45年(1970)造立のもので、本堂裏の蔵に祀られている。
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