
唐招提寺 戒壇
唐招提寺の金堂の西、土塀に囲まれて授戒のための戒壇がある。花崗岩を3段に重ねた石積みで、宝塔を壇上中央に置いている。
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唐招提寺の金堂の西、土塀に囲まれて授戒のための戒壇がある。花崗岩を3段に重ねた石積みで、宝塔を壇上中央に置いている。
聖武天皇に招かれて唐から苦難の末に渡ってきた鑑真[がんじん]和上が、新田部[にいたべ]親王の旧邸跡を賜り、天平宝字3年(759)に建立した。当初は簡素な建物であったが、朝廷などの寄進により徐々に伽藍を整えていった。境内には、奈良時代建立の国宝の金堂・講堂・鼓楼・経蔵、国指定重要文化財の礼堂・御影堂など、災禍を免れた建物が創建時の姿をよく残している。御影堂の国宝・鑑真和上像は日本最古の肖像彫刻として知られる。境内には「若葉して御眼[おんめ]の雫拭[しずくぬぐ]はばや」の芭蕉句碑も立つ。
天正13年(1585)に豊臣秀長が建立したといい、本尊の阿弥陀三尊立像(重要文化財)は鎌倉時代の作で快慶作と伝わる。門の左手の小堂に祭る石仏「垢かき地蔵」はふっくらした顔立ちで気品があり、かつては郡山城の沓脱石[くつぬぎいし]になっていたといわれる。門前の洞泉寺町はかつての花街で、木造3階建ての旧遊郭が残る。
続日本記に詳述されているとおり、奈良時代(749年)平城宮の南。梨原の薬園新宮内に設けた神殿に迎え祀られる。梨原の地はもと薬園のあったところで新宮の名もこれに因む。現在の社殿は桃山時代の再建とみられ(奈良県文化財指定)、一間社隅木入春日造で桧皮葺き、要所に極彩色が残り、彫刻や鍍金[ときん]金具などに独特の華やかさをみることができる。美しい釣灯籠も見ておきたい。境内には約50種類程の薬草見本園がある。
昭和45年(1970)唐招提寺に建てられた鉄筋コンクリートの収蔵庫で、境内東方にある。工芸、絵画、経文類など多数の寺宝のほか、破損仏も収蔵している。唐招提寺のトルソーと呼ばれる、頭と手がない如来形立像(重要文化財)も収められている。「天平の甍[いらか]」で有名な金堂の鴟尾[しび]を公開中。
養老5年(721)、行基を開基として創建。創建当初の旧礎の上に室町時代に再建された本堂(重要文化財)が残る。堂は行基菩薩が東大寺大仏殿の造営にあたり、喜光寺の本堂を雛形としたという伝承があり、「試みの大仏殿」とも呼ばれる。堂内には、平安時代後期(藤原時代)の阿弥陀如来坐像(重要文化財)を安置。行基菩薩はこの寺で没し、生駒の竹林寺に葬られた。6月中旬~8月上旬には250鉢の蓮の花が見頃をむかえる。
菅原家発祥の日本最古の天満宮。祭神は菅原道真公・天穂日命・野見宿称の三神を祀る延喜式内社。この地にて菅原家が発祥し道真公の誕生所としての伝承があり、産湯をとった天神堀が残っており全国各地より受験・試験合格祈願の参拝者がたえない。盆梅展では、境内の梅に加え130品種約200鉢もの盆梅で境内が梅の香りに包まれる。
大和郡山の町中に佇む秀長の菩提寺。旧寺号は東光寺と称し、春岳院の名は秀長の戒名による。本堂は正徳元年(1711)の再建。寺宝に足利尊氏の念持仏という千手観音を伝え、狩野貞信[かのうさだのぶ]筆の秀長画像などもある。秀長統治時代の郡山を知る資料も数多く伝える。拝観は事前に連絡を。
聖徳太子の弟の来目[くめ]皇子が建立したといわれるが、飛行中に娘のすねを見て墜落した久米仙人の創建との説話も残る。本尊薬師如来は眼病に霊験あらたかといわれる。本堂には、久米仙人の歯と毛(髪・ひげ)を植えた自作像とされる久米仙人坐像がある。多宝塔(重要文化財)は京都仁和寺[にんなじ]から移築したもので、桃山様式を残す。アジサイ園は6月が見ごろ。
唐招提寺にある、現存する天平建築最大の豪壮な建物。鑑真和上の死後、弟子の如宝が建立したと伝える。正面7間、側面4間の寄棟造。大棟の両端に鴟尾[しび]を飾った大屋根、エンタシスといわれる前面の列柱には荘重感がある。千体仏を背負った高さ3mの本尊盧舎那仏坐像(国宝)の左右に、953本の手をもつ5.4mの千手観音立像(国宝)と、像高3.36mの薬師如来立像(国宝)が並ぶ。
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