
誠心院
新京極にあり、藤原道長が和泉式部のために建てた小御堂が始まり。境内北側の墓地に高さ4mの和泉式部供養塔がある。
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新京極にあり、藤原道長が和泉式部のために建てた小御堂が始まり。境内北側の墓地に高さ4mの和泉式部供養塔がある。
坐禅体験は、短い時間設定や丁寧な説明、分かりやすい法話など、初心者でも参加しやすい工夫が満載。
聖武天皇の勅命により、724年に行基が開基したと伝わる古刹。聖武天皇が夢で龍神より打出と小槌を賜ったとの伝説が残る。この打出と小槌を用いた祈祷は金運のご利益を求める参拝者に人気がある。また、打出と小槌の形をしたお守りを授与している。境内には山崎の戦いの折、秀吉公が宝積寺を本陣とした縁から一夜で建立された三重の塔、腰掛けられていた石が残る。また、閻魔大王像をはじめとした多くの重要文化財の仏像を祀っている。
その昔、淳和天皇の皇女 崇子[たかこ]内親王の病気を治したという霊石・疱瘡石(1日、11日、15日特別公開)があり、そのため病気平癒、災難厄除、健康長寿の守護の神と崇められている。また境内には摂社西院還来神社があり、淳和院が火災となった折、皇后正子内親王のお言葉により女官、側近に至るまで無事に戻ってこられたことを称えて皇后を後世「還来の大神」としてお祀りされた。現在では「旅行安全」の神として崇められている。
学問の神様として信仰される、菅原道真公を祀る神社。キリシマツツジの名所として名高く、道真公が太宰府に左遷される際、名残を惜しんだ地といわれている。現在の社殿は、昭和16年(1941)に平安神宮の旧本殿を移築したもの。広い境内には八条ケ池が広がる。
開創は推古天皇(592~626)のころといわれ、乙訓地方きっての大寺であった。藤原種継[たねつぐ]暗殺事件に連座した早良[さわら]親王を、兄の桓武天皇が幽閉した所としても知られる。応仁の乱で荒廃したが、元禄8年(1695)徳川綱吉の援助で再興した。「幽愁の毘沙門天」との異名がある像高1mの立像は国の重要文化財。手入れの行き届いた境内は白モクレンと花が美しく、4月には約1000株のボタンが咲く。
創建は奈良時代の初期、養老2年(718)とされる。商店街の賑わいからゆるやかな坂の参道を上がっていくとサツキ、そして桜と楓が枝を伸ばして、境内に彩りを添えている。三間社流造の本殿(重要文化財)は室町時代の代表的な神社建築の様式を残し、東京の明治神宮の原形とされた。市名でもある「向日」は東山から日が昇り西山に沈むまで陽光を浴びる土地=「日ニ向カウ」から来ており、古くから農耕が営まれてきた肥沃なこの土地の産土神[うぶすながみ]として、向日神社は現在でも農家の信仰が厚い。
奈良時代の天平年間(729~748)の創建といわれる。嘉吉の乱で将軍足利義教を殺した赤松満祐が、義教の首をこの寺へ葬った。その後、摂津守護細川持賢が義教を弔うとともに細川家菩提寺として再興。また境内で起こった、大和郡山藩の遠城兄弟と生田伝八郎との果たし合い「仇討崇禅寺馬場」も有名だ。結果は、伝八郎の弟子たちに返り討ちにされたという。境内には主人公・遠城兄弟の墓、足利義教の首塚、細川ガラシャ夫人の墓がある。
仁和2年(886)に建立されたが、信長の茨木合戦で焼失。慶長8年(1603)に豊臣秀頼が再建した。毎年4月には寺に伝わる山蔭流包丁式があり、全国から料理人が集まる。西国三十三所第22番札所。
徳川家康の禁教令により追放された、高槻領主のキリシタン大名、高山右近を記念して建てられた教会。追放先のマニラの大聖堂を模して造られている。聖堂の前には祈りを捧げる右近の像がある。
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