
中村神社
かつて金沢城二の丸にあった能舞台・舞楽殿がある。明治3年(1870)、幕末の戦乱で戦死した加賀藩士たちを祭る社殿として卯辰山に移築後、中村神社の拝殿になった。漆黒の格子天井や緻密な細工の欄間に当時の金沢城の雅がうかがえる。
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かつて金沢城二の丸にあった能舞台・舞楽殿がある。明治3年(1870)、幕末の戦乱で戦死した加賀藩士たちを祭る社殿として卯辰山に移築後、中村神社の拝殿になった。漆黒の格子天井や緻密な細工の欄間に当時の金沢城の雅がうかがえる。
門前の黒板にはエスプリの効いた箴言が。定期的に書き換えられ、楽しみにしている地元住民も。本堂と鐘楼は市の文化財。2層の鐘楼が珍しい。
明治11年(1878)、紀尾井町事件の首謀者たちが本拠地の1つとした寺。現住職彫刻の石の仁王門は必見。境内には水琴窟もあり、いつでも聞くことができる。繊細で可憐な音色だ。
慶安4年(1651)に加賀藩家老青木五兵衛により建立。本堂には、病気平癒や開運にご利益のある開運霊薬不動尊。子どもに関する願い事を叶える幸福地蔵の他、加賀友禅作家の木村雨山の作品、能面が数多く展示。境内の幸福の道には、十二支像が安置されている。時計回りに2周回り、3周目に自分の干支の前へ行き、合掌してお願い事を1つだけし、最後に、白不動の前で合掌すると願いが叶うといわれる。9月のお彼岸の時期には、白い彼岸花(曼珠沙華)が約1万本の花を咲かせる。
金沢の地名の由来に登場する芋掘藤五郎が、奈良時代に建立したといわれる寺。本堂に安置される本尊は、国の重要文化財に指定された阿弥陀如来像だ。像高21cmと小さいが、大ぶりな頭や手に重量感がある金銅仏。護摩堂に祀られている平安時代作の木造不動明王坐像は金沢市の文化財に指定されている。金沢観音霊場第14番札所。藤五郎夫婦の像や藤五郎の墓もある。拝観説明あり。
寛永元年(1624)の建立で、元禄年間(1688~1704)に現在地に再建された。心岩上人作の人骨地蔵尊が有名。高さ4m33cmもある極彩色の地蔵尊で、顔・首・胸・両手・両足の白い部分は、誰にも拝まれることのない無縁仏の人骨が塗り込められているという。心岩上人の自画像図、念仏書、来迎図などを納めた什物堂[じゅうぶつどう]もある。
御祭神は、天照皇大神、豊受姫神。金沢の左義長の元祖。5・10月15~17日春秋祭礼「あぶりもち神事」は300年以上続く、悪事災難厄除伝統特殊神事。祭礼名物「あぶり餅」は、食べる御守と飾る御守(家守)の2種類。樹齢約1000年の御神木の大ケヤキは、金沢屈指のパワースポット。傍らに、「願かけ願い石」も。詩人・中原中也が子供の頃、境内で見た軽業興業(現在のサーカス)を基に、詩「サーカス」を作ったと云われる。御神木大ケヤキの樹皮入り「千年樹守」、「たらよう願い」、「花みくじ願い」等、常時約100種類の御守り等を頒布している。
金沢聖霊総合病院に隣接。昭和6年(1931)の木造建築で、ロマネスク様式を基調にしたデザイン。内部の連続アーチが美しく、金箔や黒漆塗りで仕上げられた円柱が金沢らしい。西洋と日本の感性が調和した建築物として県指定有形文化財となっている。見学は自由。ガイドの類はなし。団体見学の場合は事前連絡を。
天正13年(1585)、前田利家が前田家の祈願所として金沢城付近に建立。その後、3代藩主・利常が幕府からの攻撃に備え、寛永20年(1643)現在地に移築した。本堂に続く庫裏は外観が2階建て、内部が4階7層。23の部屋と29の階段がある。物見台ともとれる本堂屋上の望楼、金沢城への地下道と伝えられる大井戸、隠し部屋や隠し階段、ドンデン返し、抜け穴などもあり、別名・忍者寺ともよばれるほど複雑な構造。巧妙に外敵の目をあざむけるようになっている。拝観はガイド付きで予約が必要。幼児、未就学児は保護者同伴でも拝観不可。
崇神天皇3年(紀元前95年)創建の古社で、白山七社の一つに数えられている。武の神として仰がれ、寿永2年(1183)には倶利伽羅峠[くりからとうげ]の合戦で勝利した木曾義仲がお礼に鞍置馬20頭を奉納。奥州へ向かう源義経が神楽を舞って太刀を奉納したとも伝わり、境内には「義経腰掛岩」が残っている。「鶴来」の名の由来は、この神社の劒という字ともいわれる。
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