
国宝館
興福寺に伝わった寺宝の数々を収蔵。白鳳時代の仏頭(国宝)は、鎌倉期に東金堂本尊として飛鳥山田寺から移してきたものといわれる。天平時代のものでは、凛々しい少年のような阿修羅像をはじめとする乾漆造八部衆[はちぶしゅう]立像(国宝)や十大弟子立像(国宝)が有名。鎌倉復興期の木彫仏は写実的で力強く、ユーモラスな天燈鬼[てんとうき]・龍燈鬼[りゅうとうき]立像(国宝)などがある。
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興福寺に伝わった寺宝の数々を収蔵。白鳳時代の仏頭(国宝)は、鎌倉期に東金堂本尊として飛鳥山田寺から移してきたものといわれる。天平時代のものでは、凛々しい少年のような阿修羅像をはじめとする乾漆造八部衆[はちぶしゅう]立像(国宝)や十大弟子立像(国宝)が有名。鎌倉復興期の木彫仏は写実的で力強く、ユーモラスな天燈鬼[てんとうき]・龍燈鬼[りゅうとうき]立像(国宝)などがある。
京都山科の藤原鎌足[ふじわらかまたり]の私邸に建立された山階[やましな]寺が始まり。飛鳥を経て平城遷都に伴い現在地に移り興福寺と号した。藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国を支配。僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに南都北嶺[なんとほくれい]と呼ばれ、畏れられた。平家の南都焼討ちで大半の堂塔を焼失したが、鎌倉時代に復興。その後も堂塔は焼失と再建を繰り返したが、寺勢は徐々に衰え、明治の廃仏毀釈では崩壊寸前に追い込まれた。それでも東金堂[とうこんどう](国宝)、五重塔(国宝)、北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(重要文化財)などが残り、優れた仏像を多数所蔵する。
興福寺にはかつて3つの金堂があり、これは東に位置するから東金堂。神亀3年(726)に聖武天皇の発願で建立されたが、現在の堂は応永22年(1415)に天平様式で再建されたもの。堂内には本尊薬師如来像(重要文化財)と脇侍の日光・月光両菩薩像(重要文化財)、十二神将像(国宝)、四天王像(国宝)、文殊菩薩像(国宝)などを安置する。
養老5年(721)、藤原不比等[ふじわらのふひと]の1周忌に際し建立された。堂々とした八角円堂だが、現在の建物は鎌倉時代の再建。堂内には運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊弥勒如来像(国宝)の、無著[むじゃく]・世親[せしん]菩薩像(国宝)などを安置、毎年春と秋に特別公開される。
安産・子授け祈願の寺として全国から参拝者が絶えない。文徳[もんとく]天皇の皇后藤原明子[ふじわらのあきらけいこ]がこちらの地蔵菩薩に祈願したところ、清和[せいわ]天皇を出産。喜んだ文徳天皇が伽藍を整え、天安2年(858)、「腹帯が無事に解け、安産できた寺」帯解寺[おびとけでら]と名付けられた。穏やかな表情の本尊木造地蔵菩薩半跏像は重要文化財に指定されている。
天文10年(1541)、今井兵部[ひょうぶ]が開いた浄土真宗の道場がのちに寺に改められた。今井町はこの寺の境内地から寺内町として発達したもので、初代兵部以来、現在まで今井家が住職を務める。本堂は重要文化財。
和爾下神社古墳の後円部に立ち、本殿(重要文化財)は桃山時代の建築様式を残す。付近は古代豪族、和爾氏の本拠地と伝わり、和爾氏の祖神を祭っている。神社の境内には柿本人麻呂の墓といわれる、歌塚と刻まれた石碑が立つ。
山の辺の道から山門をくぐると聖徳太子像が迎える。開基開山を聖徳太子と伝える由緒ある名刹。慶長5年(1600)には関ヶ原の合戦で敗れた島津義弘公をかくまう。明治の廃仏毀釈により整理を迫られたが托鉢によって再興。
大和国の地主神である大和大国魂[やまとおおくにたま]神と、八千戈[やちほこ]神、御年[みとし]神を祀る古社。『日本書紀』によると、大和大国魂神は天照大神と並ぶ神威があり、初め宮中に祀られていたが巻向山北麓に移され、のちに現在地に遷座した。境内は東西に細長く、古代の幹線道上ツ道[かみつみち]に面して一の鳥居が立ち、樹林に包まれた長い参道を抜けると、明治初頭に改築された社殿3殿が立つ。
野見宿禰を祭神とする、穴師坐兵主神社の摂社。相撲発祥の地。『日本書紀』によれば、大和国の當麻蹶速と出雲国の野見宿禰が日本で始めての相撲をとり、勝った野見宿禰には當麻蹶速の領地が与えられた。
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