
旧田中別邸
萩出身で総理大臣も務めた田中義一の別邸。遺品を展示する母屋や増築された五松閣を公開。元々は江戸時代の毛利筑前下屋敷で、明治以降は士族救済で夏みかん栽培を勧めた萩藩士小幡高政の屋敷だった。
- 「玉江駅」から徒歩16分
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萩出身で総理大臣も務めた田中義一の別邸。遺品を展示する母屋や増築された五松閣を公開。元々は江戸時代の毛利筑前下屋敷で、明治以降は士族救済で夏みかん栽培を勧めた萩藩士小幡高政の屋敷だった。
大正14年(1925)に建てられた洋館建築の萩駅舎を改装した資料館。旧待合室では萩の自然や歴史、観光名所などをビデオなどで紹介。旧事務室では、萩出身でわが国に初めて鉄道を敷いた井上勝をパネルで紹介し、鉄道関係の資料を展示している。所要20分。登録有形文化財。
玉木文之進旧宅前の坂を上った、萩市街を眼下に見下ろす高台。家はすでにないが、跡地横に松陰と弟子の金子重輔が下田沖の黒船を眺めている銅像が立つ。近くに、松陰とその一族、高杉晋作、久坂玄瑞らの墓がある。
その傑出した行動力から「幕末のカリスマ」と称される高杉晋作は、萩藩大組士・高杉小忠太の長男としてここで生まれた。当時の旧宅の一部が現存し、屋敷の前には晋作が浸かったという産湯の井戸もある。晋作自作の歌を刻んだ句碑や自筆の書の複写、当時の茶道具などのゆかりの品を展示している。
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産「萩城下町」の一部である旧上級武家地にある長屋門。周布家は萩藩の大組で、1530石取りの上級武士。旧三の丸北の総門筋に立つ長屋門は桁行約25m、梁間約4mという大きなもの。石積みの上に下見板張り、白漆喰、本瓦葺きのがっしりとした建物が立ち、出窓の飾り金具や懸魚[げきょ]などの意匠も格調高い。萩市指定有形文化財で、一帯は萩市堀内地区伝統的建造物群保存地区にも選定されている。
敵の侵入に備えて道を鍵の手にし、両側を高い塀で囲んだ平安古の鍵曲。堀内地区の鍵曲と並んで、重要伝統的建造物群保存地区に指定。現在も武家屋敷や長屋門などが残り、当時の面影をよく伝えている。橋本川沿いのこのエリアも夏ミカンの木が多く、土塀の上から顔を除かせる黄色い実が古い町並みによく似合う。近くにある元内閣総理大臣・田中義一氏の別邸は、明治時代に夏ミカンの栽培を奨励した小幡高政の屋敷だった。ボランティアガイドが常駐しているので、夏ミカンの歴史なども聞いてみよう。
松下村塾の東隣に立つ、松陰の実家・杉家の一室。安政元年(1854)、密航に失敗した松陰は、野山獄に投獄され、翌年ここに移されて謹慎の身となった。
わが国の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、9歳の時に山口県東部の光市から萩市へ移り住んだのち、14歳で伊藤家に入家し、本拠とした家(史跡)。博文は約13年間をこの家で過ごし、17歳の時、松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。隣接地には伊藤が東京郊外に建てた別邸が移築・公開されている。
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
幕末の当時、日本屈指の蘭学医であった青木周弼は、13代藩主・毛利敬親[もうりたかちか]に召し出され、敬親の侍医を務めた人物。周弼宅には、全国から教えを乞う門下生が続々と集まったため、安政6年(1859)にこの家が新築された。
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