伊藤博文旧宅・別邸
わが国の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、9歳の時に山口県東部の光市から萩市へ移り住んだのち、14歳で伊藤家に入家し、本拠とした家(史跡)。博文は約13年間をこの家で過ごし、17歳の時、松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。隣接地には伊藤が東京郊外に建てた別邸が移築・公開されている。
- 「東萩駅」から徒歩17分
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わが国の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、9歳の時に山口県東部の光市から萩市へ移り住んだのち、14歳で伊藤家に入家し、本拠とした家(史跡)。博文は約13年間をこの家で過ごし、17歳の時、松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。隣接地には伊藤が東京郊外に建てた別邸が移築・公開されている。
吉田松陰の父・杉百合之助の末弟・玉木文之進の家。松下村塾は文之進が天保13年(1842)に近くの師弟を集め、ここで学問を教えたのが始まりで、邸内には松下村塾発祥の地碑が立つ。
安政5年(1858)に萩藩が鉄製の大砲製作のために建設した、西洋式金属溶解炉(史跡)。本体は解体され、下部が玄武岩、上部がレンガ積みの高さ11.5mの煙突だけが残る。薩摩藩や水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみだ。
江戸時代の牢獄跡で、野山獄が士分の者、岩倉獄が庶民用だった。安政元年(1854)、下田からアメリカに密航を企てて失敗した吉田松陰は野山獄に、門弟の金子重輔[かねこしげのすけ]は岩倉獄につながれた。岩倉獄跡には、重輔絶命の碑と松陰が重輔に贈った詩碑が立つ。
松下村塾の東隣に立つ、松陰の実家・杉家の一室。安政元年(1854)、密航に失敗した松陰は、野山獄に投獄され、翌年ここに移されて謹慎の身となった。
幕末の当時、日本屈指の蘭学医であった青木周弼は、13代藩主・毛利敬親[もうりたかちか]に召し出され、敬親の侍医を務めた人物。周弼宅には、全国から教えを乞う門下生が続々と集まったため、安政6年(1859)にこの家が新築された。
菊ヶ浜の東にある高さ3m、幅12m、長さ50mほどの土塁。文久3年(1863)5月の攘夷決定の日、長州藩は下関の馬関[ばかん]砲台から外国船を砲撃したが、大反撃を受けて敗退。地元への報復を恐れた藩は、菊ヶ浜に土塁を築いた。現在残るのはその一部。築塁には留守を守っていた多くの女性が参加したため「女台場」とよばれている。
指月公園内にあり、菊ヶ浜に面した二の丸跡に復元された全長57mの土塀。海からの攻撃に対抗すべく、四角形の銃眼が開けられている。「蓬生ふ銃眼の中海光る」と横光利一が詠んだ銃眼からは、きらめく海と笠山が見える。
平成22年(2010)10月に、萩市では初めての高杉晋作の銅像が登場。以来、多くの観光客、幕末ファンが立ち寄る公園となっている。
現山陽小野田市の厚狭[あさ]に領地を持っていた厚狭毛利氏の屋敷の一部で、安政3年(1856)に建てられた入母屋造本瓦葺きの長屋。梁間5m、桁行51.5mの長大な建物は、萩に現存する武家屋敷の中でも最大の規模を誇り、当時の姿をよく伝える遺構として重要文化財に指定されている。室内は座敷や中間部屋が横一直線上にいくつも連なり壮観。内部には、毛利家の姫が使った駕籠や道具類などを展示している。
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