
河東碧梧桐の句碑
「さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ」市役所前の堀端にある句碑。季題や定型にこだわらない碧悟桐の句である。碑の文字も彼独自の書体。
- 「市役所前(愛媛)駅」から徒歩1分/「県庁前(愛媛)駅」から徒歩4分
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「さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ」市役所前の堀端にある句碑。季題や定型にこだわらない碧悟桐の句である。碑の文字も彼独自の書体。
日本新派俳句最初の結社である「松風会」は当初、松山高等小学校の教員だけで構成されていた。同校跡地に立つ番町小学校校門付近にはゆかりの碑が立ち、子規旅たちの像がある。学校の敷地内にあることから、教育活動に支障のないよう見学をする必要がある。
「春や昔十五万石の城下哉」は、小説にも登場する松山を象徴する正岡子規の句。明治28年(1895)日清戦争の従軍記者として戦地に赴く直前の句。
中ノ川の緑地帯には子規の母・八重と妹・律が明治21~25年(1888~1892)まで暮らした家の跡碑もある。ここは4畳と6畳の二間しかない小さな家で、帰省中の子規を訪ねて大学生の漱石が訪ねた折には、八重が松山鮨[ずし]でもてなした。
「表忠碑」と彫られているのは近代騎兵制度創設の功労者、陸軍大将秋山好古揮毫の石碑で、三津の厳島神社にある。石碑の裏側には日露戦争にて三津地区から出兵した人の名前が刻まれている。
司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公で、日清・日露戦争に活躍した松山市出身の軍人・秋山好古と、その弟・秋山真之。梅津寺公園にある見晴山の丘上に好古像と真之像が並んで立っている。二人の銅像は、第二次世界大戦前には道後公園内にあったが、昭和18年(1943)の軍への金属物資供出のため撤去。昭和38年(1963)に真之像が、昭和45年(1970) に好古像がそれぞれ別の場所に再建され、現在はこの地に。真之像の台座の揮毫「智謀如湧」は、戦艦三笠の艦長だった東郷平八郎によるもの。
慶応3年(1867)、子規は正岡常尚の次男として花園町のこの地で生まれる。通称のぼる。翌年湊町新町に引っ越した。母・八重は、子規の赤ん坊の時のことを、丸い丸い顔で鼻が低い低い妙な顔と話していたという。
松山城二之丸御殿跡を整備した庭園。間取りを流水で再現した奥御殿跡流水園など、情緒ある手法で当時の姿を表現している。結婚式の前撮りスポットとしても知られ、恋人の聖地に認定されており、隠れた恋のパワースポットとして注目を集めている。
三津は松山藩の御船手組[おふなてぐみ](船奉行所)が置かれた由緒ある港町。遠浅のため、三津港では大型汽船は沖合いに停泊し、はしけ船が乗船をわたしていたという。子規や秋山兄弟、漱石もここから出港した。きせんのりばの碑は三津3丁目から現在の地へ移転している。子規の句碑「十一人一人になりて秋の暮」は、明治28年(1895)子規が故郷での療養のあと再び東京へ旅立つ際、宴を催してくれた友人たちと別れた後の寂しさを詠んだもの。
松山藩士の文武稽古所として建てられた藩校の講堂が保存されている。史料館では子規、秋山兄弟らの書簡や書画、試験の成績表など興味深い品々を収蔵。学校の敷地内にあることから、授業や学校管理の許容範囲内で見学となる。
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