
発心門王子
熊野の神々を祭る熊野本宮大社の神域に入る地に立つとされた重要な王子社。発心とは仏門に入り修行を始めることで、ここが聖域への入口を意味している。現在では鳥居と朱色の社殿があり、秋には周囲の木立が紅葉に染まる。
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熊野の神々を祭る熊野本宮大社の神域に入る地に立つとされた重要な王子社。発心とは仏門に入り修行を始めることで、ここが聖域への入口を意味している。現在では鳥居と朱色の社殿があり、秋には周囲の木立が紅葉に染まる。
熊野三山の一つ。鳥居から158段の石段を上ると、神門の向こうに四社殿が立つ。左から夫須美大神を祀る西御前(第一殿)、速玉大神を祀る中御前(第二殿)を合わせた相殿、その右隣に熊野造の証誠殿が立ち、主祭神の家津御子大神を祀る本殿となっている。さらに右隣の若宮(第四殿)には天照大神が祀られている。伝承によると、社殿創建は今から2020年ほど前の崇神天皇の時代。大斎原[おおゆのはら]に鎮座していたが、明治22年(1889)の大洪水で一部社殿が流失し、現在の地に遷座された。宝物殿では、『熊野本宮八葉曼荼羅』や国指定重要文化財の鉄製大湯釜などを展示。
5世紀初めに、熊野権現を勧請し、建立されたと伝えられる神社。社名は、弁慶の父といわれる熊野別当湛増[たんぞう]が、壇ノ浦の合戦の際に源平両軍から支援を求められ、どちらにつくか迷ったので、この神社の境内で紅白の鶏を闘わせて占い、源氏に加勢したことから付いた。境内には江戸時代建築の社殿が立ち並び、社務所には、湛増の鉄烏帽子や鉄扇、源義経愛用の笛、弁慶の産湯の釜が、社宝として展示されている。
龍神温泉元湯前の高台に立つ温泉寺は、弘法大師が開湯の折に瑠璃光薬師如来[るりこうやくしにょらい]を安置した草庵が始まり。宝永2年(1705)に明算[みょうざん]という僧侶が頑固な腫れ物を治した礼に薬師堂を再建したといわれる。
薬師橋のたもとにあるお堂に十二薬師像を祭る川湯温泉の守護神。もとは対岸に祭られていたものを温泉街側に移した故事から、毎年1月12日には川湯十二薬師祭が行われる。対岸に渡した綱に「揚げ物」と呼ばれる巨大な張子の干支や人気キャラクターなどが2月中旬まで飾られ、訪れる人の目を楽しませてくれる。
紀伊田辺駅の北、会津川のほとりに立つ「弘法さん」で親しまれる寺。寺伝によると、草創は聖徳太子で、弘法大師が中興したとされ、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちされた。境内を見渡すと、文化年間(1804~18)に建てられた多宝塔がひときわ目を引く。また、縄文時代の貝塚跡や、墓地には南方熊楠[みなかたくまぐす]や合気道創始者の植芝盛平[うえしばもりへい]の墓もある。
紀伊半島の大部分を占める紀伊山地にある3つの霊場と参詣道。自然を崇拝する神道と、中国から伝来し日本で発展した仏教が結び付き、修験道という信仰の形を生んだ神仏融合の霊場として隆盛した。1つ目の霊場は、熊野本宮大社と熊野速玉大社、熊野那智大社の熊野三山。ここに通じる熊野古道の5つの道のうち紀伊路を除いた4つが遺産に登録されている。2つ目の吉野・大峯は、千数百m級の山々が続く修験道の聖地で、熊野本宮大社と吉野山を結ぶ大峯奥駈道は参詣道のうち最も険しい。3つ目の高野山は、弘法大師空海が金剛峯寺を創建した真言宗の総本山で、日本仏教の聖地の一つ。参詣道の「高野参詣道 町石道」には、一町・里ごとに町石と里石が立つ。
熊野川と音無川、岩田川の合流点にある中洲で、明治時代の大洪水で流失するまで、ここに熊野本宮大社の社殿があった。現在は広い境内に、石祠を2基残すのみだが、清浄な雰囲気がかつての社地の名残りを留めている。入口には日本最大の大鳥居が立ち、春は花見の名所としても知られる。
湯の谷川のほとりにある天台宗の寺。本尊の薬師如来坐像は3mもあり、長い年月をかけて湯の花が積もり、石化してできたもの。昔、その左胸から温泉が吹きだしたことから湯ノ胸薬師と親しまれるようになり、転じて湯の峰とよばれるようになった。
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