
苅萱堂
父苅萱道心[かるかやどうしん]と母千里[ちさと]姫、その子石童丸の親子の悲劇の物語を絵で紹介する堂で、中にある厄除親子地蔵尊は、道心と石童丸の合作の地蔵と伝えられる。物語は、高野山に出家した父親を追って麓の学文路[かむろ]まで来るが、女人禁制のために母を残し、石童丸だけが入山。修行中の父に、いつわりの父の死を告げられ、学文路に戻るがすでに母は他界。高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい修行を積んだという。高野聖によって全国に語り伝えられた。所要30分。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
父苅萱道心[かるかやどうしん]と母千里[ちさと]姫、その子石童丸の親子の悲劇の物語を絵で紹介する堂で、中にある厄除親子地蔵尊は、道心と石童丸の合作の地蔵と伝えられる。物語は、高野山に出家した父親を追って麓の学文路[かむろ]まで来るが、女人禁制のために母を残し、石童丸だけが入山。修行中の父に、いつわりの父の死を告げられ、学文路に戻るがすでに母は他界。高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい修行を積んだという。高野聖によって全国に語り伝えられた。所要30分。
弘法大師(空海)が弘仁7年(816)に開いた真言密教の聖地・高野山。その高野山で最も清浄な聖地が大師入定の御廟がある奥之院。奥之院入口となる一の橋(大渡橋[おおばし])から燈籠堂・御廟まで、鬱蒼と茂る杉木立の参道が約2kmに渡って続き、参道沿いには20万基以上もの墓石や供養塔が並び立って戦国大名などの墓を訪ね歩くことができる。玉川に架かる御廟橋を渡ると、拝堂の燈籠堂とその背後に承和2年(835)に入定した大師の御廟が立つ。燈籠堂には貧女の一灯や長者の万灯(白河燈)と呼ばれる常明燈のほか2万基もの献燈が灯り壮観だ。
高野山壇上伽藍にあり、高さ約50mの5間4面の多宝塔で真言密教の根本理念を表す。弘法大師が着手し、2代座主の真然大徳[しんぜんだいとく]のときに完成。天保14年(1843)に焼失し、以後再建されずにいたが、昭和12年(1937)に再建。内部は大日如来の本尊を中心に東西南北に金剛界四仏を置き、周囲の柱に十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に表している。
開山以来、表玄関の役割を果たす高野山一山の総門。九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となる。開創当時は現在の位置から500m下の九折谷の谷底に木の鳥居があった。高さ約25mの現在の朱塗の楼門は、宝永2年(1705)に再建されたもの。昭和61年(1986)にも大がかりな解体修理が行われた。大門の両脚に構える高さ4.8mの力強い金剛力士像は、阿形像を仏師康意が、吽形像を法橋運長が造ったとされている。ここからの眺望がよく、晴れた日には山並みの向こうに紀淡海峡から淡路島まで望める。また、大門の左の赤い鳥居から原生林に囲まれた山道を約600m登ると、高野山最高峰の弁天岳に至る。
高野七口の一つ、不動口に現存する唯一の女人堂。かつて七口すべてにあった女人堂は高野山が女人禁制だったころに、女性が真言をひと晩中唱えていた場所。高野山の外周には女人道があり、女性は峯から峯を巡りながら樹間から垣間見える壇上伽藍や奥の院に手を合わせて参拝したといわれる。明治になって女人禁制が解かれたあとは、参拝者の休憩所に利用された。
高野山の壇上伽藍近くに位置する、高野山内の貴重な文化遺産を収蔵・保存し、公開する施設。大正10年(1921)開設で、国登録有形文化財の本館・放光閣はこの時の建築。本館や大宝蔵、収蔵庫には『八大童子立像(制多伽童子像)』や『仏涅槃図』の国宝21点をはじめ、国指定重要文化財や和歌山県指定文化財、重要美術品など指定文化財約2万8000点を含む約10万点を収蔵。年間を通じて常設展、企画展、大宝蔵展などを行っている。展示中の作品リストはホームページにて掲載している。所要30分。
高野山奥之院の西方に広がる広大な公園。緑豊かな園内には、天体観測所を併設する森林公園管理棟をはじめ、高野山テレワークセンターや多目的広場、ログハウス、いろいろな体験ができる森林学習展示館などの施設が点在。高野町の花でもある世界各地のシャクナゲを見ることができる西洋しゃくなげ園や桜園、アジサイ園などもあり、整備された遊歩道は森林セラピーに格好。バーベキュー棟を併設した2棟のログハウスは、宿泊だけではなく日帰り利用もでき、シーズン中には家族連れやグループで賑わう。
壇上伽藍とともに高野山の二大聖地といわれる奥之院。墓石や供養塔が並び立つ約2kmの参道の最奥に位置するのが弘法大師(空海)の御廟。参道の最後の橋・御廟橋を渡った先、御廟の拝殿にあたる燈籠堂の背後に立つ、檜皮葺きの宝形造の御堂。大師が自らこの地に廟所を定めたとされ、大師62歳の承和2年(835)、即身成仏となって入定。入定後から現在まで1日2回行われている「生身供[しょうじんぐ]」は御廟の空海に食事を届ける儀式で、大師は今もこの御廟で瞑想しながら救いの手を差しのべているといわれる。
平安初期に弘法大師が開創した仏教の聖地・高野山。本来の総本山金剛峯寺とは、「一山境内地」といわれるように高野山全体を指すが、壇上伽藍の東北に位置する「総本山金剛峯寺」は、高野山真言宗管長が居住し、高野山全体の宗務を司っている寺院。明治初期に、豊臣秀吉が建立した青巌寺と興山寺が合併し、寺号を金剛峯寺と改め総本山が置かれた。約16万平方mという広大な境内には、檜皮葺きの大屋根を持つ東西54m、南北63mの主殿(本坊)をはじめ、経蔵や鐘楼、別殿、奥殿、阿字観道場などが立ち並ぶ。奥殿の石庭・蟠龍庭が見事。
奥之院とともに高野山の二大聖地の一つとされる壇上伽藍の中央に位置する御堂。創建当時には講堂と呼ばれていたもので、高野山の開創当時からの歴史をもつという高野山一山の総本堂だ。現在も高野山の重要行事の多くがこの金堂で執り行われている。度重なる火災に遭い、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建されたもの。本尊薬師如来像は、明治時代の彫刻家・高村光雲の作で秘仏。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。