
どんどん坂
CMや映画などで、長崎らしい風景として取り上げられることが多いこの道。下りはもちろん、上りの途中で振り返って景色を眺めるのも楽しい。名前の由来は、雨が降ると坂を流れ落ちる水が「どんどん」と音を立てるから。石畳の脇には三角の形をした三角溝とよばれる溝があり、水流の速さを調節するため溝の形が上と下で異なる。
- 「石橋(長崎)駅」から徒歩11分/「大浦天主堂駅」から徒歩11分
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CMや映画などで、長崎らしい風景として取り上げられることが多いこの道。下りはもちろん、上りの途中で振り返って景色を眺めるのも楽しい。名前の由来は、雨が降ると坂を流れ落ちる水が「どんどん」と音を立てるから。石畳の脇には三角の形をした三角溝とよばれる溝があり、水流の速さを調節するため溝の形が上と下で異なる。
作家・なかにし礼著『長崎ぶらぶら節』でも紹介された唄で“遊びに行くなら花月か中の茶屋。梅園裏門たたいて…”と登場する。道沿いには明治時代築の貴重な木造建造物が点在し、風情ある石畳が続く。
中通り商店街は、江戸中期から続く長崎でも最も古くからある商店街。一見普通のお店に見えるところが、実は明治時代から続く老舗ということも。老舗菓子に雑貨、骨董、八百屋、ファッションなど約400m続く通りに約130軒ものお店がひしめきあっている。
世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である西彼杵半島西岸の集落。宣教活動が直接あったこの地には、江戸初期に多くの潜伏キリシタンが存在。村役もキリシタンで、「お帳」と呼ぶ組をつくり、祈りの言葉「オラショ」を唱え、指導者「ジヒサマ」のもと密かに洗礼や葬儀を行っていた。明治12年(1879)にド・ロ神父が赴任して潜伏は終わりを迎えた。出津漁港から出津川流域の山の斜面一帯にかけて広がる集落には、固有の埋葬方法がとられた墓地や代官所跡、庄屋屋敷跡のほか、仮の聖堂跡、ド・ロ神父建立のカトリック出津教会(出津教会堂)などが点在。段々畑や家の塀などに多くの石積みの石垣や石塀が見られ、「長崎市外海の石積集落景観」として国の重要文化的景観にも選定されている。
斜面に住む人々の生活道路でもある斜行・垂直エレベーター。上りきった場所からは長崎市街地が一望でき、グラバー園第2入場口へもすぐ。
横浜・神戸と並ぶ三大中華街のひとつ。江戸中期に唐船荷役[とうせんにやく]の倉庫を建てるために埋め立てられた地域で、現在は多くの中国料理店や商店が並ぶ。中華街の東西南北には、それぞれ龍や白虎をあしらった朱塗りの中華門が立っていて、異国情緒をさらにかき立てている。
坂本龍馬やその同志たちが歩いた道として知られ、長崎歴史探訪路として整備されている坂道。寺町通りの深崇寺と禅林寺の間から、亀山社中跡を経て風頭公園までの石段まじりの500mほどの細い坂道で、長崎市亀山社中記念館となっている龍馬創立の「亀山社中」の跡までは案内板をたどり約6分で到着。途中の案内板や道標はよく整備されており、記念館そばの龍馬のぶーつ像からは長崎市街の眺めがいい。
南山手レストハウス脇から大浦天主堂横を通る階段道。幅は狭いが、下りは大浦天主堂の側壁と教会の尖塔、その先に長崎港が広がる絶好のビュースポット。作家・遠藤周作が「葡萄の香りがする」と好んだ場所と言われている。
人々は、花街へ「行こか戻るか」と思案しながら思案橋を渡り、この思切橋の前で決意を固めた。このことから名づけられた。
世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の1つとして登録された西彼杵半島西岸の出津集落。出津文化村は、出津集落のド・ロ神父関連の史跡や施設などが集まったエリアのこと。最初に訪れたいのは、バス停出津文化村近くにある長崎市外海歴史民俗資料館。資料館前には作家・遠藤周作ゆかりの沈黙の碑がある。文化村のほぼ中心にはド・ロ神父記念館。隣接して神父が私財を投じて建てた授産・福祉施設の旧出津救助院も。ここからド・ロ神父の設計・施工の出津教会堂までは神父や遠藤周作が歩いた歴史の道が通じ、途中にはド・ロ神父ゆかりの井戸も見られる。資料館から教会堂まで徒歩10分。
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