神指城跡
慶長5年(1600)、景勝は兼続に新しい城の築城を指示。12万人といわれる人夫を集めて工事を進め、完成すれば巨大な城が出現するはずだった。関ケ原の合戦が始まったため未完に終わった。現在は土塁の一部が残る。
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慶長5年(1600)、景勝は兼続に新しい城の築城を指示。12万人といわれる人夫を集めて工事を進め、完成すれば巨大な城が出現するはずだった。関ケ原の合戦が始まったため未完に終わった。現在は土塁の一部が残る。
飯盛山の石段を上った左手に、19基の小さな墓が一列に並んでいる。戊辰戦争の際に、会津藩の少年たちで編成された白虎隊の白虎士中二番隊。戸の口原合戦場から退却してこの地に辿り着き、自刃した少年たちの墓碑だ。自刃した少年たちのうちの1人、飯沼貞吉は奇跡的に助かり、後にこの悲劇が伝わった。墓から鶴ヶ城方面へ下りたところに自刃の地がある。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納される。
京都から源義経の奥州行の後を追い、この地で力つきて難波池に身を投げたという皆鶴姫の墓があり、悲恋の物語を伝える由来書きが立つ。この地を参詣すると、良縁が授かるといわれている。
江戸中期の築庭で、歴代藩主の保養所として利用されたもの。「御薬園」の名は、今では会津の特産になっている薬用人参をはじめ、薬草を栽培していたことから付けられた。園内には300種類の薬用植物が栽培される薬用植物園、茅葺き数寄屋造りの御茶屋御殿、心字の池などがある。
鶴ヶ城公園の一角に立つ県指定重要文化財の茅葺き屋根の茶室。千利休[せんのりきゅう]が豊臣秀吉から死を命じられた際、当時の鶴ヶ城城主・蒲生氏郷[がもううじさと]はその子、少庵[しょうあん]を会津にかくまい、千家復興を働きかけたという。少庵が造ったのが、鶴ヶ城本丸内に造られたこの茶室だ。戊辰戦争後に、茶人・森川善兵衛宅に移築・保存されていたが、平成2年(1990)に元の場所に復元された。会津の銘菓が付いた抹茶が楽しめるのでぜひ。
大正時代に東山温泉を訪れた文化人のひとりに竹久夢二がいる。くつろぎ宿 新滝に長く逗留し、芸妓などをモデルにした絵を描き残した。絵はロビーに展示され、宿泊客中心に見ることができるようになっている。湯川にかかった新瀧橋のたもとには、「まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ」の碑が建てられている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
直江兼続は上杉謙信の家臣で、謙信の死後は上杉景勝に仕えた武将。国替えで越後から会津に移って来た景勝から、城の大手口の近くに与えられた屋敷がこの場所で、広さは1町(約109m)四方。江戸時代前期の儒学者・兵学者である山鹿素行が生まれた場所でもあり、大正15年(1926)に建てられた自然石の「山鹿素行誕生地」の碑石の書は、海軍軍人・東郷平八郎の筆によるもの。
鶴ヶ城の西口から約500m、新島八重と兄の山本覚馬の生家である山本家があった付近に立つ碑。平成元年(1989)に同志社が建立した。戊辰戦争で鶴ヶ城に籠城して戦った八重が、会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる歌が刻まれている。
会津若松市のシンボルである鶴ヶ城(若松城)天守閣。戦国時代に蒲生氏郷が望楼型の天守閣を完成させ「鶴ヶ城」と命名。江戸時代初期に層塔型の天守閣に改修され、戊辰戦争の際には激しい攻防に耐えた名城だ。明治7年(1874)に取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)の再建。赤瓦の5層5階建ての天守閣内は郷土博物館となっており、デジタル技術を駆使し、VR体験や歴代城主の鎧や兜の展示などで、鶴ヶ城や会津の歴史、城下町の変遷などを紹介している。会津の町並みが一望できる最上階展望層はおすすめ。
飯盛山にある、二重螺旋6角3層の旧正宗寺・円通三匝堂[さんそうどう]。さざえに似ていることから、さざえ堂と呼ばれる。階段がない螺旋状の坂を登っていくと、いつの間にか下りになっているという不思議な回廊。国の重要文化財に指定されている。所要10分。
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