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白虎隊最期の場所。白虎隊が鶴ケ城を望む姿を再現した石像も建ち、当時の彼らの心情を考えると感慨深い。ここから南西の方向に目をやると、3kmほど先に鶴ケ城が望める。
鶴ヶ城の西口から約500m、新島八重と兄の山本覚馬の生家である山本家があった付近に立つ碑。平成元年(1989)に同志社が建立した。戊辰戦争で鶴ヶ城に籠城して戦った八重が、会津藩が降伏し開城前夜に詠んだといわれる歌が刻まれている。
明治時代を代表する歌人・与謝野晶子は明治44年(1911)に、与謝野鉄寛、佐藤春夫、水上滝太郎らとともに東山温泉を訪れ、歌作などを楽しんだ。竹久夢二の碑の対岸、新瀧橋を渡った「くつろぎ宿 新滝」の敷地内には、「湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕べのひがしやまかな」の歌碑が建つ。同旅館のロビーには、竹久夢二の絵などとともに掛け軸が展示されている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
会津藩主が参勤交代などの折りに使った休憩所。戊辰戦争の本営ともなり、白虎隊奮戦の証となる弾痕や刀傷が数十ヵ所も残る御座之間や御次之間などが国の重要文化財に、藩主御入門や湯殿などは史跡に指定されている。参勤交代の道具や古文書なども展示されている。所要20分。
大正時代に東山温泉を訪れた文化人のひとりに竹久夢二がいる。くつろぎ宿 新滝に長く逗留し、芸妓などをモデルにした絵を描き残した。絵はロビーに展示され、宿泊客中心に見ることができるようになっている。湯川にかかった新瀧橋のたもとには、「まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ」の碑が建てられている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
会津武家屋敷から東山温泉へ向かう玄関口にあり、会津藩主松平家9代のうち2~9代が葬られている。山の斜面に石段、石畳がつづき、全国的にも珍しい神式の墓石が立ち、国の史跡に指定されている。出掛ける際は歩きなれた靴が望ましい。
慶長5年(1600)、景勝は兼続に新しい城の築城を指示。12万人といわれる人夫を集めて工事を進め、完成すれば巨大な城が出現するはずだった。関ケ原の合戦が始まったため未完に終わった。現在は土塁の一部が残る。
京都から源義経の奥州行の後を追い、この地で力つきて難波池に身を投げたという皆鶴姫の墓があり、悲恋の物語を伝える由来書きが立つ。この地を参詣すると、良縁が授かるといわれている。
飯盛山の石段を上った左手に、19基の小さな墓が一列に並んでいる。自刃した20名のうち1名は奇跡的に助かり、この悲劇が広く伝わった。墓から鶴ケ城方面へ下りたところに自刃の地がある。
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