
神指城跡
慶長5年(1600)、景勝は兼続に新しい城の築城を指示。12万人といわれる人夫を集めて工事を進め、完成すれば巨大な城が出現するはずだった。関ケ原の合戦が始まったため未完に終わった。現在は土塁の一部が残る。
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慶長5年(1600)、景勝は兼続に新しい城の築城を指示。12万人といわれる人夫を集めて工事を進め、完成すれば巨大な城が出現するはずだった。関ケ原の合戦が始まったため未完に終わった。現在は土塁の一部が残る。
明治時代を代表する歌人・与謝野晶子は明治44年(1911)に、与謝野鉄寛、佐藤春夫、水上滝太郎らとともに東山温泉を訪れ、歌作などを楽しんだ。竹久夢二の碑の対岸、新瀧橋を渡った「くつろぎ宿 新滝」の敷地内には、「湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕べのひがしやまかな」の歌碑が建つ。同旅館のロビーには、竹久夢二の絵などとともに掛け軸が展示されている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
飯盛山にある、二重螺旋6角3層の旧正宗寺・円通三匝堂[さんそうどう]。さざえに似ていることから、さざえ堂と呼ばれる。階段がない螺旋状の坂を登っていくと、いつの間にか下りになっているという不思議な回廊。国の重要文化財に指定されている。所要10分。
飯盛山の石段を上った左手に、19基の小さな墓が一列に並んでいる。戊辰戦争の際に、会津藩の少年たちで編成された白虎隊の白虎士中二番隊。戸の口原合戦場から退却してこの地に辿り着き、自刃した少年たちの墓碑だ。自刃した少年たちのうちの1人、飯沼貞吉は奇跡的に助かり、後にこの悲劇が伝わった。墓から鶴ヶ城方面へ下りたところに自刃の地がある。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納される。
白虎隊19士の墓から少し下ったさざえ堂の境内に隣接したところにある。創建は寛文年間(1661~1672)で、内部には白虎隊19士の霊像が安置されている。
鶴ヶ城公園の一角に立つ県指定重要文化財の茅葺き屋根の茶室。千利休[せんのりきゅう]が豊臣秀吉から死を命じられた際、当時の鶴ヶ城城主・蒲生氏郷[がもううじさと]はその子、少庵[しょうあん]を会津にかくまい、千家復興を働きかけたという。少庵が造ったのが、鶴ヶ城本丸内に造られたこの茶室だ。戊辰戦争後に、茶人・森川善兵衛宅に移築・保存されていたが、平成2年(1990)に元の場所に復元された。会津の銘菓が付いた抹茶が楽しめるのでぜひ。
京都から源義経の奥州行の後を追い、この地で力つきて難波池に身を投げたという皆鶴姫の墓があり、悲恋の物語を伝える由来書きが立つ。この地を参詣すると、良縁が授かるといわれている。
戊辰戦争の際に、会津藩の少年たちで編成された白虎隊。その白虎士中二番隊が戸の口原合戦場から退却し、自刃した地がここ。白虎隊十九士の墓のすぐ下にあり、白虎隊の少年が鶴ヶ城を望む姿を再現した石像が立つ。ここから南西の方向に目をやると、3kmほど先に鶴ヶ城が望め、当時の彼らの心情を考えると感慨深い。
会津若松市のシンボルである鶴ヶ城(若松城)天守閣。戦国時代に蒲生氏郷が望楼型の天守閣を完成させ「鶴ヶ城」と命名。江戸時代初期に層塔型の天守閣に改修され、戊辰戦争の際には激しい攻防に耐えた名城だ。明治7年(1874)に取り壊され、現在の天守閣は昭和40年(1965)の再建。赤瓦の5層5階建ての天守閣内は郷土博物館となっており、デジタル技術を駆使し、VR体験や歴代城主の鎧や兜の展示などで、鶴ヶ城や会津の歴史、城下町の変遷などを紹介している。会津の町並みが一望できる最上階展望層はおすすめ。
大正時代に東山温泉を訪れた文化人のひとりに竹久夢二がいる。くつろぎ宿 新滝に長く逗留し、芸妓などをモデルにした絵を描き残した。絵はロビーに展示され、宿泊客中心に見ることができるようになっている。湯川にかかった新瀧橋のたもとには、「まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ」の碑が建てられている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
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