
聖武天皇陵・光明皇后陵
仏教に帰依し、天平文化を開花させた聖武天皇の御陵。転害門から一条通りを西へたどり、石橋の法蓮橋を渡ると、参道前へ出る。玉砂利を敷き詰めた参道の先に拝所がある。右手奥には光明皇后陵がある。転害門から徒歩15分。
- 「近鉄奈良駅」から徒歩19分
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仏教に帰依し、天平文化を開花させた聖武天皇の御陵。転害門から一条通りを西へたどり、石橋の法蓮橋を渡ると、参道前へ出る。玉砂利を敷き詰めた参道の先に拝所がある。右手奥には光明皇后陵がある。転害門から徒歩15分。
奈良町の伝統的な町家を再現した建物。隣家との距離を十分に確保できない住宅密集地で採光や通気を確保するための坪庭や、限られたスペースを有効活用するため階段と収納が一緒になった箱階段など、生活の知恵が至る所に見られる。
平成10年(1998)登録の世界遺産。奈良時代の710年に首都・平城京が置かれて以来、現在もなお奈良市内に残る当時の遺構や寺院のうち、東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城京跡、春日山原始林の8つが構成資産として登録されている。東アジアでも、奈良のように宮殿の遺構と木造建築群、さらに山や森といった自然を含めて、文化的景観が守られている地域は珍しく、日本の国家や文化の基礎が形成された時代の様子を伝えている。また、この都市に花開いた文化を知ることができる貴重な遺産であるとともに、平城京の都市計画や仏教美術などは、中国や朝鮮との交流によってもたらされたもので、2国との交流により日本の文化が発展したことを物語っている。
東大寺大仏殿の西方、戒壇院と依水園との中間の西側に位置する。150年以上続く町屋をそのまま利用した六畳三間続きの空間を、企画展や貸し展示場にしている。「店は作家とお客様に育てていただいた」と語るオーナー夫妻の人柄そのままに、しつらえひとつにも心が行き届いていて美しい。陶器や漆器、ガラス、染め織り、他にも絵画など、作家の手の温もりを感じる作品の展示を心掛けている。小規模な楽器演奏にも使われている。
聖武天皇の遺愛の品をはじめ、東大寺に伝わった宝物を納めていた宝庫。現在は宮内庁が管理する。校倉[あぜくら]造、高床式の正倉は世界遺産。光明皇后が奉献した聖武天皇の御遺愛品のほか、大仏開眼会[かいげんえ]で使われた仏具などの宝物は戦後、構内に建築されたコンクリート造の宝庫に移されている。毎秋奈良国立博物館で開催する正倉院展に収納品の一部が出陳される。
神功皇后は仲哀[ちゅうあい]天皇の皇后とされ、三韓出兵の伝承が残る。全長275mの前方後円墳は佐紀盾列古墳群で最大。こんもり茂る緑は山のようだ。
奈良公園内の鷺池に立つ檜皮葺きの八角堂形式の六角堂。大正5年(1916)に建てられ、平成6年(1994)に建て替えられた。夜間はライトアップされ、周辺の桜やサルスベリも美しい。
柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
奈良の古都平城京にあった平城宮の中心的な施設が大極殿。第一次大極殿は、世界遺産に登録されている平城宮跡にあり、朱雀門の真北約800mの位置に堂々と立っている。発掘調査と研究の結果を元に、9年の歳月をかけて復原された。正面約44m、側面約20m、高さ約27mの平城宮最大の宮殿で、屋根は二重の入母屋造。内部は、朱色の直径70cmの丸柱44本と美しく組まれた入組天井で構成され、四方を巡る小壁には上村淳之画伯により四神・十二支が描かれている。中央に置かれている高御座は天皇が着座する玉座。
志賀直哉は昭和4年(1929)から9年間ここで暮らし、長編『暗夜行路』を完結させた。塀に囲まれた屋敷は、数寄屋造を基調としながら洋風を取り入れたサンルームや食堂が特徴的。当時、高畑近辺に住んでいた文人墨客がここに集い、高畑サロンと呼ばれた。奈良県有形文化財。
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