
神功皇后陵(五社神古墳)
神功皇后は仲哀[ちゅうあい]天皇の皇后とされ、三韓出兵の伝承が残る。全長275mの前方後円墳は佐紀盾列古墳群で最大。こんもり茂る緑は山のようだ。
- 「平城駅」から徒歩9分/「大和西大寺駅」から徒歩24分
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神功皇后は仲哀[ちゅうあい]天皇の皇后とされ、三韓出兵の伝承が残る。全長275mの前方後円墳は佐紀盾列古墳群で最大。こんもり茂る緑は山のようだ。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
佐紀盾列古墳群中の小奈辺古墳の北西にあり、仁徳天皇の皇后、磐之媛命の陵墓とされる。全長220mの前方後円墳。濠のカキツバタやコウホネが美しく、前面に水上池が広がる。
奈良町の伝統的な町家を再現した建物。隣家との距離を十分に確保できない住宅密集地で採光や通気を確保するための坪庭や、限られたスペースを有効活用するため階段と収納が一緒になった箱階段など、生活の知恵が至る所に見られる。
志賀直哉旧居の隣にあるカフェ。洋館は有形登録文化財で、多くの文化人が高畑に集った「高畑サロン」の復活を願う洋画家の主人が、自宅庭を開放している。折々に花が咲くテラス席は心地よく、優雅なティータイムを過ごせる。コーヒー600円、紅茶650円、ケーキ650円など。ケーキと飲み物のセットだと100円引き。
唐招提寺境内の北側に位置する御影堂は入母屋造、銅板葺きの瀟洒な堂宇。元は興福寺別当の一乗院御殿として慶安2年(1649)に建立されたもので、国指定重要文化財。明治期に奈良県庁舎や裁判所庁舎として使用され、昭和39年(1964)に現在地に移築、建立当時の姿に復原された。堂内の厨子には日本最古の肖像彫刻とされる鑑真和上坐像を安置。像高80cmの像は、和上の死を予感した弟子の忍基らによって制作されたと伝わり、瞑想する和上の姿を忠実に表した傑作だ。襖絵は日本画家・東山魁夷の作。
「あおによし寧楽[なら]の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と詠まれた平城京は、和銅3年(710)に藤原京から遷都された。以後70年余にわたり日本の政治経済文化の中心として栄え、天平文化が華開いた。宮跡は1.1km四方で東へ300mの張り出しがあり、全域が特別史跡として保存。1998年には遺跡として日本で初めて世界文化遺産にも登録された。広々とした宮跡は市民にとっても憩いの場。いつもどこかで発掘調査が行われていて、調査結果に基づき、建物や基壇などの復元工事も進められている。1998年には平城宮の正門である朱雀[すざく]門や東院庭園を復元。2010年には、第一次大極殿の復元工事が完成した。
元は興福寺坊官・福智院家の居宅。大正13年(1924)春鹿醸造元、今西家の所有となった。室町時代書院造の貴重な遺構は重要文化財指定。おすすめの春鹿プレートや春鹿バームセット(各800円)でゆったりと。古都ならではの贅沢を味わえる。喫茶は別途入館料が必要。
柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
佐紀盾列古墳群、日葉酢媛命陵の西にあり、奈良時代の女帝孝謙(称徳)天皇の陵墓とされる。東西方向の不整形な前方後円墳で、西に拝所がある。孝謙(称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られている。
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