
開化天皇陵(坂上山古墳)
第9代開化天皇の陵とされる前方後円墳。全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。三条通りから北に参道が延びており、付近は繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
- 「近鉄奈良駅」から徒歩6分/「奈良駅」から徒歩10分
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第9代開化天皇の陵とされる前方後円墳。全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。三条通りから北に参道が延びており、付近は繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
瓦屋根に相輪[そうりん]をのせた、和洋折衷建築の旧駅舎。鉄筋コンクリート造り2階建てで、昭和9年(1934)に2代目駅舎として完成。古都の玄関口らしい佇まいで、旧駅舎をバックに記念撮影する観光客も多い。旧駅舎は移設、保存され、奈良市総合観光案内所として活用されている。
奈良町の伝統的な町家を再現した建物。隣家との距離を十分に確保できない住宅密集地で採光や通気を確保するための坪庭や、限られたスペースを有効活用するため階段と収納が一緒になった箱階段など、生活の知恵が至る所に見られる。
江戸中期に建てられた農家。入母屋造で軒が低く、覆い被さるような茅葺き屋根が印象的だ。内部は東半分が土間で、西半分の居室部は前方に座敷、後方に台所と納戸を配した三間取り。古い形式を留めた小型住宅の例として貴重。
平成10年(1998)登録の世界遺産。奈良時代の710年に首都・平城京が置かれて以来、現在もなお奈良市内に残る当時の遺構や寺院のうち、東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城京跡、春日山原始林の8つが構成資産として登録されている。東アジアでも、奈良のように宮殿の遺構と木造建築群、さらに山や森といった自然を含めて、文化的景観が守られている地域は珍しく、日本の国家や文化の基礎が形成された時代の様子を伝えている。また、この都市に花開いた文化を知ることができる貴重な遺産であるとともに、平城京の都市計画や仏教美術などは、中国や朝鮮との交流によってもたらされたもので、2国との交流により日本の文化が発展したことを物語っている。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
志賀直哉旧居の隣にあるカフェ。洋館は有形登録文化財で、多くの文化人が高畑に集った「高畑サロン」の復活を願う洋画家の主人が、自宅庭を開放している。折々に花が咲くテラス席は心地よく、優雅なティータイムを過ごせる。コーヒー600円、紅茶650円、ケーキ650円など。ケーキと飲み物のセットだと100円引き。
柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
豪壮な石垣を巡らせた屋敷で、幕末に柳生藩財政を立て直した家老小山田主鈴[おやまだしゅれい]の旧邸。昭和39年(1964)には作家山岡荘八の所有となり、ここで柳生が舞台の小説『春の坂道』の構想を練ったという。館内には柳生藩ゆかりの古文書や武具などを展示する。
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