
日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)
佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
- 「平城駅」から徒歩8分/「大和西大寺駅」から徒歩15分
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佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
聖武天皇の遺愛の品をはじめ、東大寺に伝わった宝物を納めていた宝庫。現在は宮内庁が管理する。校倉[あぜくら]造、高床式の正倉は世界遺産。光明皇后が奉献した聖武天皇の御遺愛品のほか、大仏開眼会[かいげんえ]で使われた仏具などの宝物は戦後、構内に建築されたコンクリート造の宝庫に移されている。毎秋奈良国立博物館で開催する正倉院展に収納品の一部が出陳される。
瓦屋根に相輪[そうりん]をのせた、和洋折衷建築の旧駅舎。鉄筋コンクリート造り2階建てで、昭和9年(1934)に2代目駅舎として完成。古都の玄関口らしい佇まいで、旧駅舎をバックに記念撮影する観光客も多い。旧駅舎は移設、保存され、奈良市総合観光案内所として活用されている。
東大寺大仏殿の西方、戒壇院と依水園との中間の西側に位置する。150年以上続く町屋をそのまま利用した六畳三間続きの空間を、企画展や貸し展示場にしている。「店は作家とお客様に育てていただいた」と語るオーナー夫妻の人柄そのままに、しつらえひとつにも心が行き届いていて美しい。陶器や漆器、ガラス、染め織り、他にも絵画など、作家の手の温もりを感じる作品の展示を心掛けている。小規模な楽器演奏にも使われている。
謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
土と石を積み上げた特異な塔。奈良時代に東大寺の実忠[じっちゅう]が造ったと伝わり、近年、高さ10m、7段のピラミッド状に復元された。見学は要連絡。
豪壮な石垣を巡らせた屋敷で、幕末に柳生藩財政を立て直した家老小山田主鈴[おやまだしゅれい]の旧邸。昭和39年(1964)には作家山岡荘八の所有となり、ここで柳生が舞台の小説『春の坂道』の構想を練ったという。館内には柳生藩ゆかりの古文書や武具などを展示する。
平城宮跡にあり、平城宮の正門。門をくぐって北へ行けば平城宮内の第一次大極殿、南へは平城京のメインストリートである朱雀大路が延びていた。高さ20m、間口25m、奥行き10mの壮大な二重門として蘇り、朱塗りの柱と白壁が美しい。大屋根には金色の鴟尾[しび]も輝く。外国使節など賓客の訪問時や儀式の際しか扉は開けられなかったというが、現在は日中常時開放。
志賀直哉は昭和4年(1929)から9年間ここで暮らし、長編『暗夜行路』を完結させた。塀に囲まれた屋敷は、数寄屋造を基調としながら洋風を取り入れたサンルームや食堂が特徴的。当時、高畑近辺に住んでいた文人墨客がここに集い、高畑サロンと呼ばれた。奈良県有形文化財。
第9代開化天皇の陵とされる前方後円墳。全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。三条通りから北に参道が延びており、付近は繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている。
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