
観音寺
和銅2年(709)、行基が開基。木造千手十一面観音像(重要文化財)を安置している。本堂の150枚の天井絵は弘化3年(1846)に、油絵の先駆者の石崎融思[ゆうし]らが描いたもので、県の重要文化財に指定されている。
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和銅2年(709)、行基が開基。木造千手十一面観音像(重要文化財)を安置している。本堂の150枚の天井絵は弘化3年(1846)に、油絵の先駆者の石崎融思[ゆうし]らが描いたもので、県の重要文化財に指定されている。
海を見下ろす小高い丘に立つ、漆喰の白い外壁と2つの塔が印象的な教会堂。建立は明治15年(1882)。フランス人宣教師マルク・マリー・ド・ロ神父が自ら設計し、信者たちの労働奉仕で完成した。低く堅牢な造りの木造平屋建てで、明治42年(1909)には玄関を拡張して鐘塔を造り、創建時の装飾塔と合わせて2つの塔を持つ姿になった。内部は三廊式で、天井は漆喰塗り、かつては正座して祈りを捧げたという木造りの床には傷や擦れた跡などが残っている。国指定重要文化財で、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産である出津集落の見どころの一つ。
長崎駅から丘へ向かって5分ほど歩くと見える、高さ18mもの巨大な観音像がある寺。元国宝の本堂が原爆時の被害で焼失し、坂本龍馬と一緒に逗留したと勝海舟の日記にもある寺だ。
西坂公園の右手に見える日蓮宗の寺。以前このあたりはキリシタンの町だった所でこの寺が立つ敷地も、かつてはサン・ジョアン・バウチスタ教会や、日本最初のハンセン病の病院が建てられていた。勝海舟[かつかいしゅう]やシーボルトの妻子お滝とおイネが投宿した寺としても知られる。
正式名称は「日本十六聖人教会」。大浦天主堂に次ぐ約120年の歴史をもつ古教会だ。キリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡に、明治29年(1896)、「西中町教会堂」として建立。当初は大きな尖塔をシンボルとしたロマネスク様式の聖堂だったが、昭和20年(1945)の原爆投下で尖塔と側壁だけに。現聖堂は世界中からの献金をもって礎石、レンガの外壁はそのままに、鉄筋コンクリートの白亜の教会として昭和26年(1951)に再建されたもの。中央尖塔の両脇には2本の小塔が加えられ、天井は筒形ヴォールトになっている。祭壇中央の十字架は、スペイン・バスク地方のザビエル城にあるフランシスコ・ザビエルゆかりの「ほほえみの十字架」のレプリカ。キリストの生涯を描いたステンドグラスも美しく印象的だ。敷地内には教会名の由来となった「聖トマス西と15名の殉教者(長崎十六聖人)の碑」がある。
長崎市街の南西沖、伊王島と陸続きとなっている沖之島。その高台に立つ尖塔が印象的なゴシック様式の白亜の天主堂。今でも島の住民の約半数が敬謙なカトリック信者というこの島民の願いで、明治4年(1871)にマルマン神父設計の漆喰造りの本聖堂が建立された。その後、台風と落雷の被害にあい、昭和6年(1931)に地元の大工を棟梁として鉄筋コンクリート造りの平屋建てで再建。聖堂内は三廊式でリブ・ヴォールト天井となっており、朝と夕方には祈りの鐘がこだまする。ライトアップされた姿も美しく伊王島のシンボル的存在だ。国の登録有形文化財。
浦上街道沿いにある山王神社の鳥居。元は一の鳥居から四の鳥居まであったが、原爆の爆心地から南東約900mに位置したため、昭和20年(1945)8月9日の原爆で2つが倒壊。ほぼ原型のまま残っていた一の鳥居は後に交通事故で倒壊し、片方の柱だけになった二の鳥居のみが残っている。原爆の強烈な熱線で上部が黒く焼け、爆風によって片方の柱と鳥居上部が破壊された二の鳥居は、残った笠石の半分を一本柱で70年以上も支え続けている。国指定史跡「長崎原爆遺跡」の一つでもある。
延宝5年(1677)に建立された寺で、興福寺・福済寺・崇福寺と共に「長崎四福寺」ともよばれ、福を呼ぶ寺として人気が高い。欄干など、いたる場所に唐寺の風情が色濃く漂い、長崎一大きな梵鐘や鬼瓦を埋め込んだ塀などみどころも多い。鎖国令により15歳で国外追放された、混血児のジャガタラお春の碑があることでも知られている。
学問の神様、菅原道真を祀った神社。本殿を囲む端垣[みずがき]の欄間に刻まれた『職人尽[しょくにんづくし]』の彫刻は、菓子造りや竹細工、鍛冶大工などの職人の姿を30枚にわたり浮き彫りにした貴重なもの。県の有形文化財にも指定されている。正徳3年(1713)、社殿改築の際に奉納された。
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