
佐々木次郎太夫屋敷跡
天明5年(1785)に起きた天明の大噴火で、生き残った島民全員が八丈での避難生活を余儀なくされた時に、困難な生活を強いられた人々をまとめあげ、50年後に旧島民の帰島を果たした佐々木次郎太夫の屋敷跡。数年前まで建物が残っていたが、台風で崩壊してしまい、現在は玉石垣が残るだけだが、うっそうとしたソテツの大木や整然と積まれた石垣に往時を偲ばれる。
- 「青ケ島ヘリポート駅」から徒歩14分
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天明5年(1785)に起きた天明の大噴火で、生き残った島民全員が八丈での避難生活を余儀なくされた時に、困難な生活を強いられた人々をまとめあげ、50年後に旧島民の帰島を果たした佐々木次郎太夫の屋敷跡。数年前まで建物が残っていたが、台風で崩壊してしまい、現在は玉石垣が残るだけだが、うっそうとしたソテツの大木や整然と積まれた石垣に往時を偲ばれる。
江戸時代に建てられた新潟の庄屋屋敷を移築し、展示館として利用している。2階と3階に、刺し子作家銀座亜紀枝[ぎんざあきえ]の刺し子作品約200点を展示。草木染めや藍染めの木綿に、一針一針手刺しされた着物や小物類は、独特の存在感がある。所要30分。
波浮港西岸の高台にある見晴らし台は、巾着型をした波浮港のほぼ全景を見渡すことができる。歌詞に波浮港が登場する、都はるみのヒット曲『アンコ椿は恋の花』の歌碑が立つ。
稲根神社脇にある記念碑。文久3年(1863)アメリカの商船バイキング号が御蔵島へ座礁。当時の日本は鎖国中だったが、250人ほどの御蔵島の島民は人道的立場から力を合わせ、バイキング号の乗員約500人を救出。1ヵ月の間面倒を見た後、伊豆下田へ送り出した。事件100年を記念して、船の所属港ニューベッドフォード市民と遭難者の子孫が、感謝の意を込めて稲根神社の参道入口に記念碑を建立。記念碑に立てかけられた大錨はバイキング号で実際に使用されていたものであり、また神社の灯篭の台座にはバイキング号の錨巻揚機が利用されている。
保元元年(1156)、保元の乱に敗れ、大島に流刑された源為朝の住居跡といわれるところ。大島を本拠に近隣の島々まで勢力を広げた。島民からは赤門で親しまれ、朱塗りの門や戦に備えた物見台、為朝神社、海に通じる抜け穴などが今も残されている。
波浮港には現在も古い木造家屋の町並みがわずかに残り、港東側の界隈を「踊り子の里」と呼んでいる。丘中腹の旧港屋旅館は、資料館として当時のままの姿で保存・公開。『伊豆の踊り子』の旅芸人一座が芸を披露したことで知られ、華やかな往時の宴の様子を人形を使い再現している。千鳥破風入母屋造り、木造3階建の建物は風の強い大島では珍しい建築物。背後の丘上にある明治時代の網元の屋敷跡・旧甚の丸邸は石造り2階建て。なまこ壁の外壁や、島外から取り寄せた木材で組んだ梁や柱、大谷石の外塀など、豪勢な暮らしぶりを垣間見れる。
江戸時代、お船預りを務めていた服部家の屋敷跡。「お船預り」とは、米に代わる年貢として黄八丈を納めるための御用船の船頭のことで、島では代官に次いで重要な役目だったという。屋敷の建物は残っていないが、流人の近藤富蔵が築いた二重の玉石垣や樹齢700年ともいわれる見事な蘇鉄から当時の豪勢さが偲ばれる。流人のやるせない心情を太鼓の音に託した八丈太鼓と、地元に伝わる樫立踊りを上演(前日までに要予約。受付:8~17時)。スタッフによる黄八丈オリジナル小物の販売、パッションフルーツの生ジュース600円が飲める喫茶がある。
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