鹿島城跡
佐賀藩の支藩、鹿島藩2万石の居城跡。築城は文化4年(1807)で、現在、城門(赤門および大手門)が残りともに県重要文化財に指定されている。このほか、石垣や掘が当時の面影を伝えている。城跡一体は旭ケ岡公園として整備されている。
- 「肥前鹿島駅」から徒歩21分
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佐賀藩の支藩、鹿島藩2万石の居城跡。築城は文化4年(1807)で、現在、城門(赤門および大手門)が残りともに県重要文化財に指定されている。このほか、石垣や掘が当時の面影を伝えている。城跡一体は旭ケ岡公園として整備されている。
幕末佐賀藩の洋式海軍の拠点であり、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産のひとつ。海軍の訓練や、洋式船の修理、日本初の実用蒸気船「凌風丸」の建造などを行った。発掘されたドライドックは、現存する日本最古のもの。遺構は保存のため地下に埋め戻されており、直接みることはできないが、隣接する佐野常民記念館で貸し出しているVR機器を使えば、当時をイメージしたCG画像を見ながら、現地散策を楽しむことができる。
昭和5年(1930)築の農家住宅を移築・復元したもので、屋根は寄棟[よせむね]造の茅葺きと瓦葺き。すべてほぞ栓で組み立てられた柱や梁は見ごたえがある。現在は地元と都会の人たちの交流や会議に利用。宿泊もできる。
石炭の積出港として栄えた明治以降の隆盛が偲ばれる近代建築物などが点在する唐津の街。なかでも旧高取邸は、杵島炭鉱(佐賀県)などの炭鉱主として知られる高取伊好[たかとりこれよし]の旧宅で、約2300坪の広大な敷地に、居住スペースとしての居室棟と迎賓館的な役割を果たした大広間棟が立っている。明治38年(1905)に建設された大広間棟には、能舞台を設けるなど独特の造りとなっていて、邸内の各所には中国の故事や花鳥風月に題材をとった杉戸絵や、動植物を型抜きした欄間、七宝焼の引手金具など、意匠(デザイン)にも見どころが満載。
唐津藩の御用窯跡地。享保19年(1734)に坊主町から当時唐人町と呼ばれたこの地に移された。中里一族により大正年間まで使われていた。窯の壁面や天井部などほぼ全体が残っている。この窯の製品は献上唐津とよばれ、抹茶碗、水指、花生などがつくられていた。
東京駅を生んだ唐津出身の建築家「辰野金吾」が、愛弟子の田中実に設計を委ねた、「辰野式」赤レンガのモダン建築。
吉野ケ里歴史公園の環壕集落ゾーン内にある。支配者層が住んでいた場所と考えられ、4棟の物見櫓と10棟の竪穴住居が復元されている。実際にはそれ以上の建物があったと考えられている。
「佐賀市歴史民俗館」とは、旧長崎街道に点在している江戸~大正の7つの歴史的建造物の総称。洋風建築の「旧古賀銀行」、明治期上流階級の邸宅「旧古賀家」、明治期に米相場取引を主としていた「旧三省銀行」、佐賀城下に残る最古の町屋建築「旧牛島家」、大正期の近代和風住宅「旧福田家」、県下有数の大きな履物問屋「旧久富家」、煙草製造から呉服店へ転じた「旧森永家」の7館で、内部が無料公開されているほか、コンサートや展示会などのイベント会場としても利用されている。
鍋島三十六万石の拠点だった佐賀城は、周囲に幅70mもの堀を巡らし、5層の天守閣を誇る名城とされた城。平地に築かれた典型的な平城で、明治7年(1874)の佐賀の乱(佐賀戦争)で戦禍にあい、建物の一部を焼失し、残った建物の多くは随時解体されていった。現在は、城跡の一部が佐賀県史跡に指定され、堀と本丸跡周辺は佐賀城公園としても整備されている。本丸跡には、天保9年(1838)に完成した国指定重要文化財「佐賀城鯱の門及び続櫓[つづきやぐら]」が残り、また、佐賀城本丸御殿の一部を再現した佐賀城本丸歴史館がある。
教育者であり、『次郎物語』の作者でもある下村湖人が、明治17年(1884)に生まれてから15歳まで過ごした生家。館内には『次郎物語』の原稿をはじめ、写真や書簡など湖人ゆかりの品々が展示されている。
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