
久留里城址
JR久留里駅の東方、標高80~145mの城山に位置している。築城に際して長雨が降り続いた伝説から「雨城[うじょう]」の別名をもつ。戦国時代には房総里見氏が拠点とし、江戸時代には土屋氏や黒田氏といった徳川の譜代大名が居城し明治を迎えた。現在、周辺は城址公園として整備され、本丸跡に2層3階の天守閣、二の丸跡には久留里城址資料館が建てられ、城と郷土の歴史を伝えている。
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JR久留里駅の東方、標高80~145mの城山に位置している。築城に際して長雨が降り続いた伝説から「雨城[うじょう]」の別名をもつ。戦国時代には房総里見氏が拠点とし、江戸時代には土屋氏や黒田氏といった徳川の譜代大名が居城し明治を迎えた。現在、周辺は城址公園として整備され、本丸跡に2層3階の天守閣、二の丸跡には久留里城址資料館が建てられ、城と郷土の歴史を伝えている。
境川沿いには漁師町として栄えたころの建物が保存されている。漁業を生業としていた旧大塚家は、江戸末期の建築とされる茅葺き屋根の木造平屋。室内には当時を再現した生活用具などが置かれている。千葉県指定有形文化財。
戦国大名里見氏の最後の居城跡である館山城跡(現在の城山公園)にある、歴史と民俗の博物館。原始~江戸時代の安房の歴史と文化、里見氏ゆかりの武具や書状、民俗資料などを展示。
八幡岬公園の北東2kmの場所にある展望台。官軍塚とは、戊辰[ぼしん]戦争の末期、函館五稜郭に向かう熊本藩の軍用船が、勝浦川津沖で難破した際の死者130人以上を埋葬供養した場所。眼下に180度広がる太平洋の眺望はすばらしい。敷地内には、山すそに開けた美しい勝浦の港を詠んだ「ひく山は重りあひておのづから小さき港と成りゐたりける」の斎藤茂吉の歌碑も建立されている。
測量師として名を馳せた伊能忠敬は延享2年(1745)に九十九里町小関で生まれ、10歳まで生家で過ごす。その跡地に造られた1600平方mの公園内には測量に用いた象限儀と本人の銅像が立つ。出生地は千葉県指定史跡に指定。
境川沿いには漁師町として栄えたころの建物が保存されている。明治2年(1869)に建てられた木造2階建ての旧宇田川家は米・雑貨・呉服などを扱う商家で、その造りから当時の町家建築の特徴が分かる。また、室内には当時を再現した生活用具などが置かれている。
矢切の渡しの渡船場から徒歩15分の西蓮寺[さいれんじ]の境内にある。伊藤左千夫の処女小説『野菊の墓』は、明治30年代の矢切地方の牧歌的な田園地帯を背景にして描かれた悲恋物語。左千夫は柴又の帝釈天[たいしゃくてん]から江戸川を舟で渡り、矢切地区の田園を逍遥するのが気に入って、何回も足を運んだという。高台にある境内からは左千夫も眺めた江戸川や、対岸の柴又の景色が一望のもと。
15世紀後半、戦国時代が始まった頃に造られた小金城跡の一部を整備してできた公園。下総国有数の大規模城郭で、地域の政治の中心だったが、豊臣秀吉の関東攻めにより天正18年(1590)に役割を終えた。敵が堀底を道のように移動するのを防ぐため、畑の畝のような仕掛けを施した畝堀は、全国的にも珍しい。土塁もよく残り、当時の姿を偲ぶことができる。
名主も務めた旧家・吉田家。国の重要文化財に指定された8棟の建造物のうち、長屋門や主屋、書院、新座敷、蔵などが見学できる、それぞれ趣の異なる建物は見応え充分(素足での入館はできないので、靴下を着用)。園内には「長屋門カフェ」があり、コーヒーはもちろんハヤシライスやうどんなどのランチも食べられる。
佐倉武家屋敷のひとつ。面積約80平方mで3棟の中では最も小規模。当時の小知[しょうち](百石に満たない藩士)の住居といわれている。建物内には武家屋敷地から出土した陶磁器や藩士の生活に関係する資料などが展示されている。
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