
正文堂
明治13年(1880)の建築で切妻造りの木造2階建て土蔵造。昇り龍、降り龍を配した看板があり、正文堂の文字は巌谷修の書(明治29年(1896))。大黒柱には欅材を用い、2階の窓は開き戸、横引きの土戸、板戸と三重に防火設備を伏した土蔵。江戸の町家に用いられた黒塗りの土蔵作りの店舗の形式を伝えている。土蔵造りの書店は全国でも珍しい。千葉県の有形文化財に指定され、現在では和菓子店となっている。
- 「佐原駅」から徒歩12分
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明治13年(1880)の建築で切妻造りの木造2階建て土蔵造。昇り龍、降り龍を配した看板があり、正文堂の文字は巌谷修の書(明治29年(1896))。大黒柱には欅材を用い、2階の窓は開き戸、横引きの土戸、板戸と三重に防火設備を伏した土蔵。江戸の町家に用いられた黒塗りの土蔵作りの店舗の形式を伝えている。土蔵造りの書店は全国でも珍しい。千葉県の有形文化財に指定され、現在では和菓子店となっている。
釈迦の最後の姿を模して横たわる釈迦涅槃仏は、圧倒的な存在感。全長16mで青銅製ガンダーラ様式としては世界最大級。
房総半島の最南端に立つ日本で2番目に古い西洋式灯台で、国の登録有形文化財に登録されている。明治2年(1869)、フランス人技師ヴェルニーによって建造され、関東大震災後、大正14年(1925)に復旧された。高さ29m、光は約31km先まで届く。らせん階段を上った展望台からは、伊豆諸島までも見渡せる。
測量師として名を馳せた伊能忠敬は延享2年(1745)に九十九里町小関で生まれ、10歳まで生家で過ごす。その跡地に造られた1600平方mの公園内には測量に用いた象限儀と本人の銅像が立つ。出生地は千葉県指定史跡に指定。
平成2年(1990)に市に寄贈され、博物館の屋外施設として移築復元された。進藤家は代々農業を営み、江戸時代末期には知行主の御地方役(おじかたやく)(代官)をつとめた旧家。建築計画や資材の配達について記された普請帳が残されていたため、建築は弘化4年(1847)に始まり、嘉永3年(1850)に完成したことがわかった。建築年代がはっきりしていること、建築当初の姿をよくとどめていることなどの理由から、平成元年(1989)に袖ケ浦市指定文化財に指定され、大切に保管・活用している。
城下町時代の面影を残す大多喜町久保地区にある代表的な住宅(重要文化財)。大多喜藩の御用金御用達をまかされていた豪商・渡辺家の住居で、建物は嘉永2年(1849)築の2階建て寄棟造。帳場、机などがそのまま残されており、江戸末期の商家の旧態を伝えている。内部は非公開。
木更津市街の東にあり、駅周辺や東京湾を一望できる丘全体に広がる公園。園内には四季折々の花木が植えられ、山頂のきみさらずタワーや博物館、18世紀初めの代表的民家・旧安西家などが点在する。
JR久留里駅の東方、標高80~145mの城山に位置している。築城に際して長雨が降り続いた伝説から「雨城[うじょう]」の別名をもつ。戦国時代には房総里見氏が拠点とし、江戸時代には土屋氏や黒田氏といった徳川の譜代大名が居城し明治を迎えた。現在、周辺は城址公園として整備され、本丸跡に2層3階の天守閣、二の丸跡には久留里城址資料館が建てられ、城と郷土の歴史を伝えている。
花園海岸の松林に立つ歌碑。和田を愛した童謡作家鹿島鳴秋[かしまめいしゅう]が、亡くなった愛娘を偲んで作った『浜千鳥』の歌詞が黒御影石に刻まれている。
寛政6年(1794)創業の旧油惣商店は江戸中期安永9年(1780)、本地において酒造業を始め、その後寛政年間より佐原で初めて奈良漬を始めている。店舗は、明治33年(1900)築で、木造寄棟妻入の佐原では珍しい総2階の建築。寛政10年(1798)築で佐原としては最古の土蔵。
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