飛鳥水落遺跡
中大兄皇子[なかのおおえのおうじ](のちの天智天皇)が斉明6年(660)に造った日本初の水時計台跡。発掘調査で、礎石と礎石の間を石で連結させた堅固な建物跡や、導排水管などが発見された。遺構は整備されており、飛鳥資料館で水時計の模型が見られる。
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中大兄皇子[なかのおおえのおうじ](のちの天智天皇)が斉明6年(660)に造った日本初の水時計台跡。発掘調査で、礎石と礎石の間を石で連結させた堅固な建物跡や、導排水管などが発見された。遺構は整備されており、飛鳥資料館で水時計の模型が見られる。
近世に宿場町として栄えた名柄集落に残る豪壮な住宅。慶長年間(1596~1615)に代官屋敷として建てられたもので、重要文化財に指定されている。内部の見学は要予約。
継体天皇の皇后手白香皇女[たしらかのひめみこ]の墓とされ、宮内庁が管理する。古墳の名でいうと、西殿塚[にしとのづか]古墳。全長234mの巨大前方後円墳。付近に広がる大和古墳群には4世紀の大古墳が集中するが、そのなかでも最大の規模。周辺部の発掘調査結果からは、4世紀前半の築造とみられている。手白香皇女は6世紀の人物であることから、被葬者とするには大きな開きがあるといわれる。
大和郡山のシンボルとして親しまれる。天正8年(1580)に筒井順慶[つついじゅんけい]が築城。豊臣秀長時代の大増築に際し紀州根来寺[ねごろじ]の大門を移築、平城京羅城門の礎石や石仏、五輪塔までかき集めて豪壮な石垣が築かれた。今も天守台の北面で逆さまに積まれた地蔵が見られる。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳澤家十五万石の城下町として栄えた。明治時代に城郭は壊されたが石垣や堀が残り、追手門、東隅櫓[ひがしすみやぐら]、追手向櫓、多聞櫓[たもんやぐら]が復元されている。本丸に登城する正式な橋とされる「極楽橋」も完成。桜の季節にはお城まつりで賑わう。
金屋集落の西南にあり、山辺の道の南の起点。古代には飛鳥や難波に向かう道が合流する交通の要所で、わが国最古の市とされる海柘榴市が開かれ賑わった。ここはまた若い男女が歌を詠み合いながら婚約を成立させる、古代の「歌垣[うたがき]」の舞台でもあった。現在は小堂が立つ海柘榴市観音に名を残すだけ。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
江戸中期に建てられた農家。入母屋造で軒が低く、覆い被さるような茅葺き屋根が印象的だ。内部は東半分が土間で、西半分の居室部は前方に座敷、後方に台所と納戸を配した三間取り。古い形式を留めた小型住宅の例として貴重。
高取城は標高583.6mの高取山頂にあった山城。南北朝時代に築かれ、豊臣秀長の家臣本多氏、譜代大名の植村氏により大改修された。城内は1万平方m、周囲3km。郭内は6万平方m、周囲30kmに及び、山城としては日本一の規模といわれる。白亜の城郭建築がそびえた様子は芙蓉城と称えられたが、廃藩置県で取り壊された。広大な範囲に残る苔むした石垣が、かつての栄華を物語る。
志賀直哉旧居の隣にあるカフェ。洋館は有形登録文化財で、多くの文化人が高畑に集った「高畑サロン」の復活を願う洋画家の主人が、自宅庭を開放している。折々に花が咲くテラス席は心地よく、優雅なティータイムを過ごせる。コーヒー600円、紅茶650円、ケーキ650円など。ケーキと飲み物のセットだと100円引き。
大宇陀の中心部の松山地区には江戸時代、福島氏など豊臣系武将の居城だった松山城があった。この門はその名残を留める唯一の遺構。福島正則の弟福島掃部頭孝治[ふくしまかもんのかみたかはる]が、松山城を居城とした江戸初期に建築された。本瓦葺き切妻屋根の簡素な門で、壁以外は黒く塗られているから、黒門という。
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