
松山西口関門
大宇陀の中心部の松山地区には江戸時代、福島氏など豊臣系武将の居城だった松山城があった。この門はその名残を留める唯一の遺構。福島正則の弟福島掃部頭孝治[ふくしまかもんのかみたかはる]が、松山城を居城とした江戸初期に建築された。本瓦葺き切妻屋根の簡素な門で、壁以外は黒く塗られているから、黒門という。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
大宇陀の中心部の松山地区には江戸時代、福島氏など豊臣系武将の居城だった松山城があった。この門はその名残を留める唯一の遺構。福島正則の弟福島掃部頭孝治[ふくしまかもんのかみたかはる]が、松山城を居城とした江戸初期に建築された。本瓦葺き切妻屋根の簡素な門で、壁以外は黒く塗られているから、黒門という。
奈良の古都平城京にあった平城宮の中心的な施設が大極殿。第一次大極殿は、世界遺産に登録されている平城宮跡にあり、朱雀門の真北約800mの位置に堂々と立っている。発掘調査と研究の結果を元に、9年の歳月をかけて復原された。正面約44m、側面約20m、高さ約27mの平城宮最大の宮殿で、屋根は二重の入母屋造。内部は、朱色の直径70cmの丸柱44本と美しく組まれた入組天井で構成され、四方を巡る小壁には上村淳之画伯により四神・十二支が描かれている。中央に置かれている高御座は天皇が着座する玉座。
佐紀盾列古墳群中の小奈辺古墳の北西にあり、仁徳天皇の皇后、磐之媛命の陵墓とされる。全長220mの前方後円墳。濠のカキツバタやコウホネが美しく、前面に水上池が広がる。
佐紀盾列古墳群、日葉酢媛命陵の西にあり、奈良時代の女帝孝謙(称徳)天皇の陵墓とされる。東西方向の不整形な前方後円墳で、西に拝所がある。孝謙(称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られている。
志賀直哉は昭和4年(1929)から9年間ここで暮らし、長編『暗夜行路』を完結させた。塀に囲まれた屋敷は、数寄屋造を基調としながら洋風を取り入れたサンルームや食堂が特徴的。当時、高畑近辺に住んでいた文人墨客がここに集い、高畑サロンと呼ばれた。奈良県有形文化財。
東大寺大仏殿の西方、戒壇院と依水園との中間の西側に位置する。150年以上続く町屋をそのまま利用した六畳三間続きの空間を、企画展や貸し展示場にしている。「店は作家とお客様に育てていただいた」と語るオーナー夫妻の人柄そのままに、しつらえひとつにも心が行き届いていて美しい。陶器や漆器、ガラス、染め織り、他にも絵画など、作家の手の温もりを感じる作品の展示を心掛けている。小規模な楽器演奏にも使われている。
本町筋の中央にあり、18世紀初期頃の町屋と資料にもとづき当初の姿に再現した館。
高松塚古墳の南一帯は古代、檜隈[ひのくま]と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢[やまとのあや]氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志[おみあし]神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。
大和郡山市西郊、矢田丘陵の一角に26.6haの敷地を有する大和民俗公園は、奈良県内各地から古民家9軒15棟(重要文化財3棟、奈良県指定文化財10棟)が移築復原され、一般に公開されている野外博物館的要素をもった特色ある都市公園。自然と人との共存の場として、近年注目されている「里山」の環境を生かしつつ、「みんぱく梅林」「しょうぶ園」など四季折々の草花が楽しめる。
天武天皇の皇子、高市[たけち]皇子の第一皇子である長屋王の墓と伝えられる場所。聖武天皇即位の際に左大臣に就いたものの、藤原氏の陰謀で、自殺に追い込まれた。削平された前方後円墳の後円部を利用した直径15mの塚が樹木におおわれている。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。