
崇神天皇陵
全長242mの巨大前方後円墳で、築造は4世紀前半。第10代の崇神天皇は、大和政権の初代大王ともいわれる。堂々とした陵墓は、相当な権力を手中に収めたことを想像させる。高い堤の上には松並木が続き、水をたたえた周濠も美しいが、幕末に柳本藩が潅漑利用も兼ねて大改修しており、当初の姿とは異なる。
- 「柳本駅」から徒歩17分
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全長242mの巨大前方後円墳で、築造は4世紀前半。第10代の崇神天皇は、大和政権の初代大王ともいわれる。堂々とした陵墓は、相当な権力を手中に収めたことを想像させる。高い堤の上には松並木が続き、水をたたえた周濠も美しいが、幕末に柳本藩が潅漑利用も兼ねて大改修しており、当初の姿とは異なる。
弥生時代の大環濠集落である唐古・鍵遺跡の一部を整備している。弥生時代の風景を再現し、かつての生活を追体験できる公園。出土した絵画土器をもとに復元された楼閣、多重環濠、大型建物跡の柱の一部が復元されている。
佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁[すいにん]天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという。
柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
瓦屋根に相輪[そうりん]をのせた、和洋折衷建築の旧駅舎。鉄筋コンクリート造り2階建てで、昭和9年(1934)に2代目駅舎として完成。古都の玄関口らしい佇まいで、旧駅舎をバックに記念撮影する観光客も多い。旧駅舎は移設、保存され、奈良市総合観光案内所として活用されている。
神功皇后は仲哀[ちゅうあい]天皇の皇后とされ、三韓出兵の伝承が残る。全長275mの前方後円墳は佐紀盾列古墳群で最大。こんもり茂る緑は山のようだ。
高松塚古墳の南一帯は古代、檜隈[ひのくま]と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢[やまとのあや]氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志[おみあし]神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。
巨石を積み上げた姿があまりに有名な飛鳥のシンボル。奈良県中央部の明日香村に広がる国営飛鳥歴史公園石舞台地区に位置する国の特別史跡。6世紀末~7世紀初めの築造で、蘇我馬子[そがのうまこ]の墓というのが定説。墳丘は1辺約50mの方墳で、最大幅8.4mの濠が巡る。日本最大級の横穴式石室は、玄室の長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m。内部に入るとその巨大さが実感できる。「石舞台」の名は天井石が広く平らで舞台のようだから。石室の露出は馬子の専横ぶりに反発した後世の人が封土をはがしたとの言い伝えも。
環濠集落は外敵を防ぐため、周囲に用水路を兼ねた水濠を巡らせた集落。奈良盆地に多いが、標高100mのここは奈良県で最も高所にある環濠集落。集落の西側に環濠の一部が残る。竹之内環濠集落から少し南に、萱生[かよう]環濠集落もある。
謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
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