
宇陀市阿騎野・人麻呂公園
朝廷の狩場の中心施設があった遺跡を整備した公園。復元された古代建物や柿本人麻呂の騎馬像が立つ。
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朝廷の狩場の中心施設があった遺跡を整備した公園。復元された古代建物や柿本人麻呂の騎馬像が立つ。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
全長約140mで、明日香村内最大級の前方後円墳。墳丘の緑と、濠が美しい。570年に死去した欽明天皇と、妃で蘇我馬子の妹の堅塩媛[きたしひめ]を合葬した檜隈坂合陵[ひのくまさかあいのみささぎ]とされている。しかし、出土遺物が築造年代とあわず、北方の丸山古墳を欽明陵とみる説がある。
柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
大和郡山のシンボルとして親しまれる。天正8年(1580)に筒井順慶[つついじゅんけい]が築城。豊臣秀長時代の大増築に際し紀州根来寺[ねごろじ]の大門を移築、平城京羅城門の礎石や石仏、五輪塔までかき集めて豪壮な石垣が築かれた。今も天守台の北面で逆さまに積まれた地蔵が見られる。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳澤家十五万石の城下町として栄えた。明治時代に城郭は壊されたが石垣や堀が残り、追手門、東隅櫓[ひがしすみやぐら]、追手向櫓、多聞櫓[たもんやぐら]が復元されている。本丸に登城する正式な橋とされる「極楽橋」も完成。桜の季節にはお城まつりで賑わう。
永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願で創建されたと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた大寺院で、『太平記』によると延元元年・建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく消滅、寺域には池が残るだけ。堤の桜が美しく、池畔には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立つ。
金屋集落の西南にあり、山辺の道の南の起点。古代には飛鳥や難波に向かう道が合流する交通の要所で、わが国最古の市とされる海柘榴市が開かれ賑わった。ここはまた若い男女が歌を詠み合いながら婚約を成立させる、古代の「歌垣[うたがき]」の舞台でもあった。現在は小堂が立つ海柘榴市観音に名を残すだけ。
飛鳥四大寺の1つであり、1塔二金堂式といわれる伽藍配置をもち、当時としてはとても大きな寺だったと想像出来る。中金堂跡には、瑪瑙の礎石(28個)も残っている。本尊は十一面観音、弘法大師作の持国天、多門天に平安初期に造られたとされる十二神将も拝観できる。日本書紀によれば川原寺は日本初の写経場とされており、飛鳥の風を感じながら、簡単な写経体験メニューも用意。写経後には、広い座敷にて天香久山を眺めながら、食事を楽しむことができる(料金、人数等は要問合せ)。
中大兄皇子[なかのおおえのおうじ](のちの天智天皇)が斉明6年(660)に造った日本初の水時計台跡。発掘調査で、礎石と礎石の間を石で連結させた堅固な建物跡や、導排水管などが発見された。遺構は整備されており、飛鳥資料館で水時計の模型が見られる。
状況が『日本書紀』などの記述と合致することから、被葬者がほぼ確実視されている八角形墳。
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