
鏡王女墓
忍阪集落の東の奥にある舒明[じょめい]天皇陵の脇の山道をしばらく進むと、四方を山に囲まれた窪地が開ける。そこにある小さな円墳が鏡女王の墓とされる。鏡女王は、万葉の女性歌人として有名な額田王[ぬかたのおおきみ]の姉であり天智天皇の妃、のちに藤原鎌足の夫人となった。墓の北側には、欽明[きんめい]天皇の皇女大伴[おおとも]皇女の墓もある。
- 「大和朝倉駅」から徒歩20分
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忍阪集落の東の奥にある舒明[じょめい]天皇陵の脇の山道をしばらく進むと、四方を山に囲まれた窪地が開ける。そこにある小さな円墳が鏡女王の墓とされる。鏡女王は、万葉の女性歌人として有名な額田王[ぬかたのおおきみ]の姉であり天智天皇の妃、のちに藤原鎌足の夫人となった。墓の北側には、欽明[きんめい]天皇の皇女大伴[おおとも]皇女の墓もある。
永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願で創建されたと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた大寺院で、『太平記』によると延元元年・建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく消滅、寺域には池が残るだけ。堤の桜が美しく、池畔には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立つ。
崇神天皇陵よりさらに大きく、全長約300m。全国第7位の前方後円墳で、周囲に巡らされた濠は1kmにも及ぶ。第12代の景行天皇は日本武尊[やまとたけるのみこと]の父に当たり、宮都の纒向珠城宮[まきむくのたまきのみや]は、桜井市穴師[あなし]付近にあったと推定されている。
仏教に帰依し、天平文化を開花させた聖武天皇の御陵。転害門から一条通りを西へたどり、石橋の法蓮橋を渡ると、参道前へ出る。玉砂利を敷き詰めた参道の先に拝所がある。右手奥には光明皇后陵がある。転害門から徒歩15分。
古代豪族十市県主の一族で、代々、惣年寄筆頭を務めた家。慶安3年(1650)に再建された今井町最古の建物で、民家の法隆寺といわれる。天正3年(1575)、織田信長本陣となり、自治権を認められ裁判を行なう陣屋となった。国指定重要文化財。
状況が『日本書紀』などの記述と合致することから、被葬者がほぼ確実視されている八角形墳。
黒髪山にある。文武天皇から聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に即いた母娘の女帝の陵墓。どちらも南に拝所がある。
柳生藩陣屋は、柳生宗矩[むねのり]が寛永19年(1642)に建設したが、約100年後に焼失。仮建築のまま明治維新を迎え、現在跡地は史跡公園化されている。石積で往時の建物の位置を表示、桜や松も植樹され、憩いの場となっている。
奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺および法起寺の寺院建造物群で構成される平成5年(1993)登録のユネスコの世界遺産。聖徳太子によって607年に創建された法隆寺の現伽藍は、西院と東院、子院群から構成されており、なかでも7世紀後半から8世紀初頭に再建された西院の金堂、五重塔、中門、回廊は、木造建築としては世界最古。中国六朝時代の影響を受けた仏教伝来直後の仏教建築物だが、その頃の仏教建築は中国や朝鮮にも現存せず、東アジア一帯の仏教寺院の歴史をうかがい知ることができる貴重な建造物である。また子院の寺院群は、12世紀から18世紀ごろにかけて徐々に建てられたもので、日本の仏教建築様式の変遷を今日に伝えている。
「大東の四条屋」の屋号で酒造業を行っていた。前面の格子は木割りが細く、幕末の上層民家の好例。中2階形式が多い今井町にあって、完全な2階建てで、2階の窓も虫籠[むしこ]窓でなく、出格子[でごうし]窓。土間上方の高窓が、ひもで上げ下げできるのも、新しい形式だ。
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