
今西家
古代豪族十市県主の一族で、代々、惣年寄筆頭を務めた家。慶安3年(1650)に再建された今井町最古の建物で、民家の法隆寺といわれる。天正3年(1575)、織田信長本陣となり、自治権を認められ裁判を行なう陣屋となった。国指定重要文化財。
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古代豪族十市県主の一族で、代々、惣年寄筆頭を務めた家。慶安3年(1650)に再建された今井町最古の建物で、民家の法隆寺といわれる。天正3年(1575)、織田信長本陣となり、自治権を認められ裁判を行なう陣屋となった。国指定重要文化財。
状況が『日本書紀』などの記述と合致することから、被葬者がほぼ確実視されている八角形墳。
環濠集落は外敵を防ぐため、周囲に用水路を兼ねた水濠を巡らせた集落。奈良盆地に多いが、標高100mのここは奈良県で最も高所にある環濠集落。集落の西側に環濠の一部が残る。竹之内環濠集落から少し南に、萱生[かよう]環濠集落もある。
天武9年(680)、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願。文武2年(698)にほぼ完成。ここは当初の薬師寺があった場所で、本薬師寺跡と呼ばれる。金堂と東西両塔の基壇や礎石が、田んぼに囲まれて残るだけだが、伽藍配置は平城京薬師寺とまったく同じ。金堂跡の巨大な礎石群が、かつての大寺を想像させる。
中大兄皇子[なかのおおえのおうじ](のちの天智天皇)が斉明6年(660)に造った日本初の水時計台跡。発掘調査で、礎石と礎石の間を石で連結させた堅固な建物跡や、導排水管などが発見された。遺構は整備されており、飛鳥資料館で水時計の模型が見られる。
全長242mの巨大前方後円墳で、築造は4世紀前半。第10代の崇神天皇は、大和政権の初代大王ともいわれる。堂々とした陵墓は、相当な権力を手中に収めたことを想像させる。高い堤の上には松並木が続き、水をたたえた周濠も美しいが、幕末に柳本藩が潅漑利用も兼ねて大改修しており、当初の姿とは異なる。
崇神天皇陵よりさらに大きく、全長約300m。全国第7位の前方後円墳で、周囲に巡らされた濠は1kmにも及ぶ。第12代の景行天皇は日本武尊[やまとたけるのみこと]の父に当たり、宮都の纒向珠城宮[まきむくのたまきのみや]は、桜井市穴師[あなし]付近にあったと推定されている。
大和郡山のシンボルとして親しまれる。天正8年(1580)に筒井順慶[つついじゅんけい]が築城。豊臣秀長時代の大増築に際し紀州根来寺[ねごろじ]の大門を移築、平城京羅城門の礎石や石仏、五輪塔までかき集めて豪壮な石垣が築かれた。今も天守台の北面で逆さまに積まれた地蔵が見られる。江戸時代には、水野、松平、本多と城主が替わり、享保9年(1724)以降は柳澤家十五万石の城下町として栄えた。明治時代に城郭は壊されたが石垣や堀が残り、追手門、東隅櫓[ひがしすみやぐら]、追手向櫓、多聞櫓[たもんやぐら]が復元されている。本丸に登城する正式な橋とされる「極楽橋」も完成。桜の季節にはお城まつりで賑わう。
左右対称に翼廊[よくろう]が付いた美しい明治建築で、かつての旧高市郡教育博物館。館内では各種資料で今井の歴史や建築を紹介。
猿目橋バス停から旧道の坂道を少し下った所に、道をふさぐように立つ。人の背丈ほどもある大きな石に6体の地蔵が横一列に浮彫りされた、地元の大切な守り神だ。
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