子規母堂令妹住居跡
中ノ川の緑地帯には子規の母・八重と妹・律が明治21~25年(1888~1892)まで暮らした家の跡碑もある。ここは4畳と6畳の二間しかない小さな家で、帰省中の子規を訪ねて大学生の漱石が訪ねた折には、八重が松山鮨[ずし]でもてなした。
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中ノ川の緑地帯には子規の母・八重と妹・律が明治21~25年(1888~1892)まで暮らした家の跡碑もある。ここは4畳と6畳の二間しかない小さな家で、帰省中の子規を訪ねて大学生の漱石が訪ねた折には、八重が松山鮨[ずし]でもてなした。
小説では、中ノ川は、川幅2mあり、水が飲めるほどに美しく、子規の正岡屋敷は南側の生垣をこの流れに映していたと記されている。現在、中ノ川通りの中央の緑地帯には、子規が2~17歳で上京するまで過ごした住居跡碑があり、そばには子規の歌碑も立つ。
日本新派俳句最初の結社である「松風会」は当初、松山高等小学校の教員だけで構成されていた。同校跡地に立つ番町小学校校門付近にはゆかりの碑が立ち、子規旅たちの像がある。学校の敷地内にあることから、教育活動に支障のないよう見学をする必要がある。
「春や昔十五万石の城下哉」は、小説にも登場する松山を象徴する正岡子規の句。明治28年(1895)日清戦争の従軍記者として戦地に赴く直前の句。
「表忠碑」と彫られているのは近代騎兵制度創設の功労者、陸軍大将秋山好古揮毫の石碑で、三津の厳島神社にある。石碑の裏側には日露戦争にて三津地区から出兵した人の名前が刻まれている。
昭和3年(1928)の昭和天皇正式即位を祝い、近衛師団長を務めたこともある秋山好古が揮毫した「祝御大典奉祝記念」の碑が、道後公園東グランド遊具広場内に立つ。公園内の湯築城跡は国の史跡である。
伊佐庭如矢は、明治半ばに松山城・道後温泉・道後公園の保存や改良・設備に尽力し、松山市の文化遺産・観光拠点の基礎を築いた人物。道後湯之町の初代町長を務めた。
山口県生まれの自由律の俳人、種田山頭火の終の住処。山頭火の句にちなんだ樹木が植えられた庭には、4基の句碑が立つ。1年を通して庵の外観見学は自由。庵に隣接した休憩所には、山頭火に関する資料を展示。
標高132mの勝山に造られた松山城は、山上の本丸に小天守や櫓が連結する連立式天守をもつ平山城。慶長7年(1602)に築城を開始し、約四半世紀をかけて完成したとされる。本丸跡(本丸広場)と二之丸跡(二之丸史跡庭園)、三之丸跡(堀之内地区)から成る城山公園は全体が国指定史跡で、天守をはじめ、乾櫓や野原櫓、隠門など築城当時から残る櫓や門など21棟が国指定重要文化財。安政元年(1854)に再建落成された天守では、歴代城主の甲冑や刀を展示。松山城の歴史が学べ、甲冑の試着体験も好評だ。最上階からは石鎚山から伊予灘までが一望できる。
3階大屋根の上にある塔屋。中に太鼓が吊るされており、1日3回打ち鳴らされる(6時、12時、18時)。この音は環境庁(現・環境省)の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。見学は館外からのみ可(内部の見学は不可)。
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