切幡寺
寺は山の中腹にあり、仁王門から333段の石段を上ると本堂が、さらにその先、大塔へ続く。切幡の名は、機織り娘の伝説に由来。弘法大師が巡錫中の弘仁6年(815)、衣が傷んだので娘に繕いの布を求めると、織っていた布を惜しげもなく切り取ってくれた。その礼に娘の願いを聞き、亡き父母のために一夜で千手観音像を刻み、娘に灌頂を授けると、娘は観音菩薩の姿に変わったという。本堂には本尊の千手観音のほかに、機織り娘が即身成仏となった観音(秘仏)も安置されている。
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寺は山の中腹にあり、仁王門から333段の石段を上ると本堂が、さらにその先、大塔へ続く。切幡の名は、機織り娘の伝説に由来。弘法大師が巡錫中の弘仁6年(815)、衣が傷んだので娘に繕いの布を求めると、織っていた布を惜しげもなく切り取ってくれた。その礼に娘の願いを聞き、亡き父母のために一夜で千手観音像を刻み、娘に灌頂を授けると、娘は観音菩薩の姿に変わったという。本堂には本尊の千手観音のほかに、機織り娘が即身成仏となった観音(秘仏)も安置されている。
聖武天皇の命で全国に建立された国分寺の一つで、行基が開基。当時は鎮護国家の祈願所として七重塔を備えた大伽藍だったが、天正年間(1573~92)の長宗我部勢の兵火により堂塔は焼失。その後、寛保元年(1741)に吼山養師和尚により再建されたときに曹洞宗寺院となる。天保年間(1830~44)に大師堂が建つなど、長い年月をかけて再建。現在の重層入母屋造の本堂は文化文政年間(1804~30)に再建、聖武天皇と光明皇后の位牌が祀られている。境内には地元阿波産の青石の巨石を使った豪快な石組の名勝阿波国分寺庭園がある。
中国風の鐘楼門をくぐり石段を上ると本堂が、その左手の石段を上ると大師堂がある。人間がもつ生・老・病・死・怨憎会苦・愛別離苦・求不得苦・五陰盛苦という八つの苦しみを阿弥陀如来の慈悲により乗り越え、極楽浄土の十の楽しみを得られるようにと、十楽寺と名付けられた。3kmほど離れた十楽寺谷堂ケ原で弘法大師が阿弥陀如来を感得し、尊像を刻んで開基したと伝える。大伽藍を誇る大寺院であったが、天正年間(1573~92)の長宗我部勢の兵火で焼失。寛永年間(1624~44)に現在地に再建。本尊だけは焼ける本堂の中から住職(真然)が背負って逃げたため無事で、創建時より伝わる大変貴重なもの。
寺名は大師が幼少時代に、書道や学問を学んだことが由来。境内に「お筆の加持水」が湧く。庫裡裏には室町の作庭とされる書院式庭園がある。薬師如来像は重要文化財。
延暦11年(792)、弘法大師が厄除祈願をしていると薬師如来が現れ、加持をするための水を求めて杖で掘ると乳白色の水が湧き上がり、その霊水で体を清め、薬師如来像を刻み本尊として安置したという。この水により人々が平等に救済されるようにと願いを込め寺号を付けた。本堂左手の井戸は、万病に効く「弘法の水」として崇められている。また、健脚に霊験あらたかで、ご利益を授かった参拝者が奉納した木製の車が、本堂に並べられている。本堂内の頭上には草花を描いた天井画が見事、一見の価値あり。
眉山の山麓に立つ臨済宗[りんざいしゅう]妙心寺派の禅寺。江戸初期に造られた池泉回遊式の庭で知られている。山麓の斜面を巧みに利用した庭には、茶室や三重宝塔などが配されており、洗練された風情がある。キリスト教が禁止されていた江戸時代に灯籠にマリア像を刻み、地蔵尊と偽った切支丹[きりしたん]灯籠も見逃せない。
阿波国に入国した蜂須賀家政が城下町の建設にあたり、各地にあった寺院を集めて作った町。ポルトガル人の文豪モラエスや国学者の野口年長の墓がある潮音寺、懸魚県選定保存技術保持者である中山利夫の彫刻がある東光寺など多くの寺院が立ち並ぶ。
「一番さん」と親しまれる四国霊場第1番札所。天平年間(729~49)、聖武天皇の勅願道場として行基が創建したといわれ、一年中白装束のお遍路さんで賑わう。1番札所の札がかかる仁王門をくぐると鯉が泳ぐ池があり、大師堂や多宝塔、本堂などが立ち並ぶ。1番札所にふさわしく、納経帳や遍路用の衣装、金剛杖、菅笠などを販売。ガイドブックもある。わからないことは、駐車場横の売店に尋ねよう。毎年2月3日には、節分・開運星祭り祈願が行われる。
標高約600mの箸蔵山頂に立つ寺。天長5年(828)、弘法大師が四国行脚の途中、金毘羅大権現の神託を受けて創建したと伝わり、金毘羅奥の院ともいわれる。四国別格霊場札所として参詣者が多く、本坊から石段の参道に沿って護摩殿・鐘楼・薬師堂・本殿・観音堂などの諸堂が連なる。そのほとんどが国の重要文化財に指定されている。
奥の院にある五百羅漢が珍しい羅漢寺としても知られるが、本尊は地蔵菩薩。嵯峨天皇の勅願を受けた弘法大師が1寸8分(約5cm)の勝軍地蔵菩薩を刻んで本尊とし開基。こうした小さな仏像は山伏などが笈に入れて旅したもので、おそらく熊野修験が寺の起源と見られている。その後、浄函上人が1尺7寸(約50cm)の延命地蔵尊を刻み、大師作の勝軍地蔵菩薩を胎内に納めた。貴人や、義経、蜂須賀家など武将たちの信仰も厚く、寺は栄えたが、長宗我部勢の兵火で焼失。現在の建物はその後に再建されたもの。
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