
善光寺 延命地蔵尊(如来堂跡)
善光寺草創以来、本堂があった場所で、現在は「如来堂旧地」と記された石碑が立つ。初代の地蔵尊は、現本堂ができた5年後に造立された。現在の地蔵尊は昭和24年(1949)に造立された。
- 「善光寺下駅」から徒歩9分/「権堂駅」から徒歩14分
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善光寺草創以来、本堂があった場所で、現在は「如来堂旧地」と記された石碑が立つ。初代の地蔵尊は、現本堂ができた5年後に造立された。現在の地蔵尊は昭和24年(1949)に造立された。
長国寺の奥にある松代真田家の初代藩主真田信之公の霊屋。信之夫妻の位牌が安置されている宝殿は、桁行3間、梁間4間の撞木屋根の入母屋[いりもや]造で、唐破風[からはふ]や千鳥破風が付いた堂々たるもの。万治3年(1660)の建立で、昭和55年(1980)に解体復元された。宝殿内外には、狩野探幽筆と伝えられている天井画や左甚五郎作と伝えらえる破風の鶴の彫刻など、すばらしい装飾が施されている。
第2次大戦末期の昭和19年(1944)、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省を松代に移すという極秘の計画のもと、象山、舞鶴山、皆神山の三カ所で碁盤の目状に、全長約10kmの地下濠が掘られた。当時で約2億円の資金と、延べ300万人の労働者を動員したが、全行程の75%まで進んだところで終戦を迎え、工事は中止された。現在は長野市が管理し、その一部500mの区間が見学コースとして整備され、戦争の歴史を語っている。駐車場から地下壕入口まで徒歩7分。
文久2年(1862)、参勤交代制が緩和されたのに伴い、9代藩主・幸教[ゆきのり]が、江戸から松代へ帰ることになった母・貞松院のために建てた城外御殿。敷地約8000平方m。主屋・冠木門・長屋・土蔵など、大名屋敷の様子を今に伝える貴重な建物で、部屋数は35室にも及ぶ。座観式の池泉庭園は四季折々、訪れる者を楽しませてくれる。
寛永元年(1624)、真田信之が設置。2時間ごとに鐘をつかせた。江戸時代の度重なる大火で2代目までの鐘は焼損し、3代目の鐘は太平洋戦争で供出。現在の鐘は、平成3年(1991)に付けられたものだ。嘉永2年(1849)、佐久間象山は日本で初めて電信機を作り、伊勢町御使者の居館からこの鐘楼まで電線を架けて通信に成功したと伝えられている。現在、内部見学は不可。毎日10時、15時に鐘を鳴らしている。
長国寺の真田信之公霊屋に備わる表門。宝殿とともに万治3年(1660)に建立された切妻造り柿葺きの四脚門。大棟には真田家の家紋「六連銭」が記され、黒塗りの両開きの扉を持ち趣がある。隣にある信弘の霊屋は県宝に指定されている。
戦国時代、武田信玄によって築城されたといわれる城。元和8年(1622)に真田信之が上田から移封されて以来、10代約250年にわたって真田氏が城主をつとめた。明治の廃城後、建物は取り壊されたが、櫓門や木橋などが復元され一般公開されている。国指定史跡。
武田信玄と上杉謙信が戦った古戦場跡。公園に隣接する八幡社の境内には二人の一騎討ちを再現した「三太刀七太刀」の碑や銅像などが立つ。
佐久間象山が松代での9年の蟄居の後、京都の川べりにかまえた家の一部(茶室)。昭和56年(1981)、象山神社の境内に移築された。東山や八坂の塔が見える眺めのよい家で、その雨に煙る情緒豊かな風情を象山が愛でたといわれる。
象山神社の境内にある木造2階建て、寄棟の屋根を持つ建物で、長野市の指定文化財。佐久間象山が借り、書斎や客間として使用していたため、長州の高杉晋作、久坂玄瑞[くさかげんずい]、土佐藩の中岡慎太郎など幕末の志士が多く訪れた。
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