
安藤家住宅
江戸中期の宝永5年(1708)築の旧名主の家。茅葺きの主屋のほか茶室、蔵などがあり、庭園には松の巨木が立つ。11月中旬~12月上旬は紅葉が美しい。2月~4月初旬頃まで「安藤家の雛祭り」が行われ、江戸後期~昭和中頃までの色々なお雛様を楽しめる。
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江戸中期の宝永5年(1708)築の旧名主の家。茅葺きの主屋のほか茶室、蔵などがあり、庭園には松の巨木が立つ。11月中旬~12月上旬は紅葉が美しい。2月~4月初旬頃まで「安藤家の雛祭り」が行われ、江戸後期~昭和中頃までの色々なお雛様を楽しめる。
天正元年(1573)、上洛を目指した信玄は信濃・駒場(現・長野県下伊那郡阿智村)で病没した。勝頼は信玄の死を伏せ、遺骸をひそかに甲斐国に戻し、3年後に二十四将の一人とされる土屋右衛門昌次の邸内で荼毘[だび]に付したといわれる。なお、信玄の正式な葬儀は天正4年(1576)に恵林寺で行われた。
武田信玄の叔父で、戦国時代にこの地を治めたことから勝沼氏を名乗った五郎信友[ごろうのぶとも]の館跡。当時の交通の要衝であった。建物は残っていないが多くの遺構がある。広大な敷地の一部が整備され、史跡公園になっている。
JR甲府駅南口駅前に鎮座する信玄公の座像。昭和44年(1969)に完成、昭和60年(1985)に駅ビル西側の現在の場所へ移設された。御影石の台座も含めた像の高さは6.2m、重さは5tもあり、堂々の風格。記念撮影スポットとして人気。
御師は、江戸時代に、富士山に登拝する富士講信者の宿泊や食事の世話をし、日常は富士山信仰の布教活動と祈祷を行った。現在の富士吉田市上吉田地区には、最盛期には80軒以上の御師の家があったという。現存する約20軒のうち一般公開されているのが旧外川家住宅。明和5年(1768)建造の主屋と、立派な御神前(神棚)を備える離れ座敷があり、内部には外川家で使用されてきた道具類や登山の装束などの富士講の資料が展示されている。国指定重要文化財であり、世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産となっている。
江戸時代の富士講(信仰としての富士登山)のための宿泊施設が軒を連ねた富士みち、現在の国道137号に立ち、富士吉田の中心・シンボルでもある鳥居。大暴風による倒壊や戦争中の供出などを経て、現在の金鳥居は4代目となり、昭和30年(1955)に建立されたもの。
自然豊かな公園内に、三島由紀夫文学館と徳富蘇峰館が立つ。三島由紀夫文学館では直筆原稿・創作ノート・著書のほか、肖像写真・演劇資料など約300点を展示。三島文学の真髄に触れることができる。周囲には歌碑・句碑19基が点在し、木々の間をぬって石碑巡りができる。徳富蘇峰館は徳富蘆花の兄でジャーナリストの蘇峰の資料を始め、勝海舟・横井小楠・徳富蘆花・伊藤博文らの肉筆資料を展示。
江戸中期に幕府の命を受け、薬用植物・甘草[かんぞう]を栽培した高野家の旧屋敷。200年を経た建物は、正面中央に突き上げ屋根が2段ある切妻造に甲州の古民家の特徴が見られる。古くから甘草屋敷の名で呼ばれ、館内には生活道具のほか、薬草に関する様々な文書や道具類も展示。周囲には薬草園もある。
河口湖東岸に突き出した小さな岬で、波のない早朝に湖面に映る逆さ富士の展望地として有名。ここを訪れた松尾芭蕉[まつおばしょう]の句碑、富士の写真家として知られた岡田紅陽[おかだこうよう]の胸像などが立つ。突端の岩の上にある小祠には、富士の祭神・木花開耶姫命[このはなさくやひめのみこと]が祀られている。姫がこの地で出産をしたとの伝説から岬の名が付いた。
貞観6年(864)の富士山大噴火の翌年、朝廷の勅命により富士山の神・浅間大神(木花開耶姫命[このはなのさくやひめのみこと])を祀り、鎮火祭が行われたのが始まり。樹齢1200年という県指定天然記念物の七本杉などの巨木に覆われた境内には、拝殿・本殿のほか、美麗石(ヒイラ石)と呼ばれる石祠、山宮社などの境内社が立ち、清涼な空気が流れる。本殿は慶長12年(1607)建築で一間社流造。4月の例大祭、7月の太々御神楽祭など、祭礼行事も多い。世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ。
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