
善光寺 仁王門
善光寺の仁王門。宝暦2年(1752)建立のものが慶応1年(1865)に再建されたが、明治24年(1891)火災で焼失したため、現在の仁王門は大正7年(1918)に再建されたもの。左右に立つ阿吽の仁王像は高さ約5mのかつらの寄木造りで、高村光雲と弟子の米原雲海による傑作。鉤鎖を握り開口するのが阿形、金剛杵[こんごうしょ]を手にして閉口するのが吽[うん]形で、迫力ある憤怒の形相が印象的。
- 「善光寺下駅」から徒歩9分/「権堂駅」から徒歩12分
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善光寺の仁王門。宝暦2年(1752)建立のものが慶応1年(1865)に再建されたが、明治24年(1891)火災で焼失したため、現在の仁王門は大正7年(1918)に再建されたもの。左右に立つ阿吽の仁王像は高さ約5mのかつらの寄木造りで、高村光雲と弟子の米原雲海による傑作。鉤鎖を握り開口するのが阿形、金剛杵[こんごうしょ]を手にして閉口するのが吽[うん]形で、迫力ある憤怒の形相が印象的。
石畳の参道左手にある天台宗の本坊。大本願と共に善光寺の法灯守護の重責を担い、7年に1回御開帳される前立[まえだち]本尊(重要文化財)が安置されている。広い境内に25ケ院の塔頭が甍を並べている様は圧観だ。また、室町風池泉廻遊[ちせんかいゆう]式の庭園では、奥庭園にある沈香亭[ちんこうてい]が明治天皇ゆかりの茶亭で趣深い。
善光寺の仁王門手前の左側にある尼寺で、浄土宗の大本山。皇極元年(642)蘇我馬子[そがのうまこ]の姫が天皇御杖代としてここへ遣わされたのが起こりといわれる。宝物館には、宮家ゆかりの品々や国の重要文化財に指定された絹本著色阿弥陀聖衆来迎図[けんぽんちゃくしょくあみだしようじゅうらいごうず]が展示され、渡り廊下にある日本画家・岡信孝の格天井絵四季草花図は必見。
かるかや山西光寺は善光寺の門前町にある浄土宗の古刹。刈萱上人とその子、石童丸ゆかりの寺で、善光寺参詣の人々が必ず立ち寄る寺として栄えてきた。親子が刻んだ二体の刈萱親子地蔵尊を本尊とし、境内には芭蕉句碑や親子の銅像などが立つ。希望により寺宝である江戸期作の『刈萱道心石童丸御親子御絵伝』の一代記を語ってくれることから、絵解きの寺としても知られている。
善光寺から徒歩で20分。坂道を登り切った高台にある浄土宗の山寺。「刈萱[かるかや]道心と石堂丸」の話で知られる刈萱上人が没した地で、別名・かるかや堂という。堂内に残る親子地蔵尊は厄難を救い、極楽へ導いてくれるといわれている。また、珍しい絵解き(縁起の絵を見せながら住職が独特の口調で行う説教法話)が伝承されていて、刈萱上人一代記伝の絵解をしてくれる(1回15分、要予約)。境内の鐘は地元出身の草川信が作曲した『夕焼け小やけ』のモチーフになったといわれ、作詞家・中村雨紅直筆の歌碑が立っている。
善光寺世尊院の小御堂は別名「釈迦堂」とよばれ、体長1.66m、重さ500kgの日本で唯一の銅造等身大釈迦涅槃像が祀られている。お釈迦様が入減し完全な悟りを開いたお姿を表わしている。鎌倉後期の作で国の重要文化財に指定されている。
善光寺の楼門。寛延3年(1750)の建築で、5間3戸、二重の入母屋[いりもや]造。高さは約20mもある。善光寺の額は、輪王寺宮公澄[こうちょう]法親王の筆によるもの。平成19年(2007)末に平成大修理が終了し、建立当時と同じ姿に復原された。
松代が生んだ幕末の思想家の先覚者、佐久間象山を祭った神社。象山が生まれてから29年間を過ごした佐久間象山宅跡、吉田松陰の密航事件に連座の後、蟄居[ちっきょ]の身となった象山が客間・書斎として使用していた高義亭[こうぎてい]、9年の蟄居の後、京に上って構えた家の茶室を移築した煙雨[えんう]亭が境内に立つ。
戸隠神社は、戸隠山の麓にある奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社五社の総称。天照大神の天の岩戸開き神話にゆかりの神々を中心に祀る。
この地には、平安時代の伝説の鬼女紅葉[もみじ]を供養する鬼立山地蔵院があったが、その後、江戸時代に曹洞宗の禅師を迎え松巖寺となった。本堂の欄間には曹洞宗の開祖・道元[どうげん]禅師の一代記が彫られており、格天井には見事な花鳥画がはめられている。妖術を使ったという鬼女紅葉[きじょもみじ]の伝説は興味深い。
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