
若一神社
仁安元年(1166)、この地に別邸を構え西八条御所とした平清盛公が、邸宅内の鎮守社として建立。
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仁安元年(1166)、この地に別邸を構え西八条御所とした平清盛公が、邸宅内の鎮守社として建立。
清和天皇の六男を父とする源経基を祀る。清和源氏の祖となる経基は、六男の六と天皇の孫の意で、六孫王と呼ばれ八代後に源頼朝が生まれる。
応永年間(1394~1427)に行阿上人が開山した古刹。古くから女性の悩みごと、願いごとにご利益がある祈願所として知られてきた。婦人病や女性全般にご利益がある女性の御守などが販売されている。また、人形供養の寺としても知られ、人形を随時受け付けている。
高さ55mの国宝・五重塔で知られる東寺の正式名は「教王護国寺」。平安遷都の際に創建された官寺を弘仁14年(823)に空海が嵯峨天皇より賜り、真言密教の根本道場とした。土一揆で伽藍のほとんどを焼失したが、室町末期~江戸初期にかけて再建。本堂である国宝の金堂を中心に、国指定重要文化財の南大門と講堂、昭和初期再建の食堂が一直線に並ぶ伽藍配置は創建当時の特徴を残している。境内には、国宝・御影堂(大師堂)、宝蔵、宝物館なども立ち並び、講堂の曼荼羅を立体化した21体の仏像は圧巻。宝物館は春と秋に公開、五重塔の特別公開も要確認。
憧れの異性との出会いを成就させる、縁結びの神様として女性を中心に信仰を集めている。道祖神をかたどった愛の土鈴は良縁だけでなく、カップルの永遠の愛を呼び込むとか。交通安全の神としても知られている。
西本願寺南にある真宗興正派の本山。文明年間(1469~1487)、佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改めて山科に一宇を建てたのが起こり。佛光寺の旧称から興正寺(興隆正法寺)と称した。その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、天正19年(1591)に現在地に移った。建立は江戸時代(1600年頃)で、明治35年(1902)に焼失、明治45年(1912)再建。
三十三間堂の東側にあり、淀殿が文禄3年(1594)に父浅井長政の菩提寺として建立。その後火災に遭い、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人である崇源院が元和7年(1621)に伏見城の旧材を使って再建。本堂廊下の上の天井は「血天井」と呼ばれ、伏見城が落城した時、徳川家康の部下だった鳥居元忠らが自刃した際の血痕が付いた床板を使用したものという。俵屋宗達の描いた杉戸絵(重要文化財)・襖絵(重要文化財)や狩野山楽筆の襖絵も見逃せない。
新京極にある飛鳥時代の創建という古刹。もとは奈良にあったが平安遷都で京都へ移り、その後秀吉の区画整理で現在地へ移転した。謡曲『誓願寺』の中で、和泉式部が「歌舞の菩薩」となって現れることから芸道上達祈願のお寺として信仰を集める。また、五十五世住職・安楽庵策伝上人は『醒睡笑[せいすいしょう]』八巻を著したことにより「落語の祖」と称される。門前に「迷子のみちしるべ」と呼ばれる石柱が立つ。
律宗・壬生寺[りっしゅう みぶでら]は正暦2年(991)に創建された。本尊は延命地蔵菩薩(重文)であり、厄除・開運のご利益が授けられる。700年余の伝統を持つ壬生狂言は、毎年盛大に行われており、庶民大衆の寺として今日に至る。境内にある壬生塚[みぶづか]には、局長・近藤 勇の胸像や、隊士が葬られており、新選組隊士にまつわる逸話も残っている。
室町時代に日真上人[にっしんしょうにん]が開いた法華宗真門流の本山。広い境内に本堂、祖師堂、方丈、鐘楼などの伽藍と、8つの塔頭がある。西陣が一夜にして灰燼に帰した西陣焼けや天明の大火にも本堂が焼け残ったので、不焼寺[やけずのてら]という異名もある。本堂には鬼子母神が祭られていて、安産祈願に訪れる人が多い。葉を枕の下に敷くと子供の夜泣きが止むという「夜泣止めの松」も有名。寺のある紋屋町には、西陣らしい雰囲気が残っている。
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