宇佐神宮
全国に4万余社ある八幡社の総本宮。神亀2年(725)応神[おうじん]天皇の御神霊、八幡大神を祀る本殿の一之御殿が創建されたことが始まりと伝わる。太古からの原生林に囲まれた境内には八幡造の3棟の本殿(国宝)をはじめ、神橋、呉橋[くれはし]、能楽殿、宝物館など貴重な建築物が立ち並ぶ。10年に一度、皇室から勅使を迎える臨時奉幣祭も斎行。
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全国に4万余社ある八幡社の総本宮。神亀2年(725)応神[おうじん]天皇の御神霊、八幡大神を祀る本殿の一之御殿が創建されたことが始まりと伝わる。太古からの原生林に囲まれた境内には八幡造の3棟の本殿(国宝)をはじめ、神橋、呉橋[くれはし]、能楽殿、宝物館など貴重な建築物が立ち並ぶ。10年に一度、皇室から勅使を迎える臨時奉幣祭も斎行。
ソメイヨシノやヤエザクラが咲く桜の名所として有名。展望台からは大分市・別府湾が一望できる。大分縣護國神社には慰霊碑や西南戦争で亡くなった軍人や警官の墓地などがある。
境内奥の岩壁に刻まれた、高さ8mとも12mとも言われる全国最大級の磨崖仏。中央に不動明王像、両脇にはセイタカ童子やコンガラ童子なども彫られている。6月下旬~7月上旬には2000株ものアジサイが咲く。
初代藩主・稲葉貞通が慶長5年(1600)に創建。九州では2カ所しかない江戸期の木造三重塔。臼杵の名匠・高橋団内らの手によるもので、塔の軒下にはユニークな表情の天邪鬼が置かれている。
江戸時代に仏門に入ったカッパが住んでいたという池と、その墓が残る寺。天保の飢饉のころ、人々が苦しんでいる横で相撲をとっていたカッパたちに、当時の住職が仏法を説いた。「千年生きている我々に文句を言うな」と最初はくってかかったカッパだったが、仏法の貴さに心を打たれ仏門に入る。その後、寺の池に住み、火事や水難から守ったとの言い伝えがあり、火難・水難除けのお守りもある。
天正15年(1587)、黒田孝高[よしたか]によって建立。深紅に塗られた壁は城下町・中津の中でもひときわ強烈な印象を与え、別名・赤壁寺とよばれる。豊臣秀吉の時代、豊前の実力者だった宇都宮鎮房[しげふさ]が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたという。柱には当時の刀傷も残り、家臣たちの無念と悲しみが壁の血痕を何度も浮き出させたと伝えられている。
神仏混淆の形式をそのまま残している珍しい地蔵尊で、全国から訪れる多くの人から「高塚さん」の愛称でよばれ、祈願成就にご利益があると親しまれている。みやげ店が立ち並ぶ長い参道では、名物のゆで饅頭をぜひ味わいたい。3・7・9月の24日には大祭が行われ、多くの参拝客で賑わう。社務所は8~17時。参拝は24時間可能。
平安初期の天長4年(827)を創建の起源とし、「豊後一の宮」とされ国司・武家などが崇敬した由緒ある神社。約2万5000坪の境内の深い森の中に鎮座する社殿は嘉永年間に再建された壮麗な八幡造りで、本殿・申殿・拝殿など10棟が国指定重要文化財に指定されている。元和9年(1623)再建の南大門には古今の聖人や花鳥風月および二十四孝が刻まれ、日暮し門と呼ばれている。門の横に聳え立つ御神木の大楠は樹齢3000年と伝えられ、国指定天然記念物。
文殊山の中腹に位置する古刹。大化4年(648)の創建と伝えられ、のち六郷満山末山本寺として栄えた。鬱蒼とした杉林の参道から境内に抜けると、力強い仁王像が姿を見せる。さらに300段の石段を登りきった場所が奥の院。本尊は文殊菩薩で、12年に1度開帳。
富来港の開運橋から文殊仙寺までの約10kmを、縁起をかついで富が来る路の意を込め「富来路」とよんでいる。道沿いには、「富来神社」の愛称もある宝くじ運アップの八坂社など、縁起のいい開運名所が並ぶ。八坂神社前のみやげ店(土・日曜、祝日のみ営業)では、開運グッズを販売している。
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