
荒川家住宅
荒川家は、天正年間(1573~92)から続くという旧家。主屋と土蔵は江戸中期に建てられたもので、飛騨の匠が腕をふるった建物は見応え充分。国の重要文化財にも指定されている。内部には、民具や伊達政宗が金森長近[ながちか]に宛てた書状などが並ぶ。
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荒川家は、天正年間(1573~92)から続くという旧家。主屋と土蔵は江戸中期に建てられたもので、飛騨の匠が腕をふるった建物は見応え充分。国の重要文化財にも指定されている。内部には、民具や伊達政宗が金森長近[ながちか]に宛てた書状などが並ぶ。
大名や幕府役人の宿として利用された旧脇本陣。明和6年(1769)に建設された居室部と、やや遅れて建てられた座敷部からなり、国の重要文化財にも指定されている。切妻屋根の両端には立派なうだつが上がり、この家の当時の権威や格式の高さが伺い知れる。現在、主家に隣接する隠居家は一般公開され、江戸時代の町家の雰囲気や貴重な遺構を見学できる。
馬籠宿の坂道を上りきった、中山道への入り口付近に立っている。江戸時代にはこの場所で幕府から庶民にふれ回す高札が掲げられていた。現在は、正徳年間(1711~16)に発布された御朱印[ごしゅいん]、切支丹[きりしたん]、薬品などに関する定書と、明和7年~寛政6年(1770~1794)に発布された徒党禁止の定書が復元され、掲示されている。
高山市片野町から移築。屋根は板葺石置屋根両妻葺きおろしで、江戸初期の飛騨の農家の様式をとどめる。居間、台所、仕事場を兼ねた室内の広い土間が特徴。
戦国時代、斎藤道三公の居城だった稲葉山城が、織田信長公によって岐阜城と名を変えたのは永禄10年(1567)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、昭和31年(1956)に再建されたもの。三層四階構造で、最上階は展望台になっている。平成27年(2015)に日本遺産第1号として認定され、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜の構成文化財に位置づけられている。
関ケ原駅から北西へ延びる街道沿いがかつての主戦場。向かって前方左手が石田方西軍の笹尾山、後方右手が徳川方東軍の桃配山[ももくばりやま]。戦死者を葬った首塚、各武将の陣跡なども点在する。
不破関は壬申の乱の翌年(673年)、天武天皇が設けた関で、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに、日本三関とよばれた。美濃国司が勤務、兵士が常駐し、国家の非常時に備えていたもので、発掘調査の結果、一辺400mの土塁の中に東山道を取り込み、約100m四方の内郭には、瓦葺きの建物が数多く建っていたと言われている。
江戸幕府の代官所・郡代役所の遺構。飛騨国が幕府直轄領だった176年の間、25代の代官・郡代がここで執務を行った。門番所付きの重厚な表門は天保3年(1832)の改築。玄関之間・大広間・吟味所など役所の一部は、文化13年(1816)の改築当時のものだ。元禄8年(1695)、高山城三之丸から移築した御蔵は年貢米を収めた蔵。国内最古・最大級の米蔵といわれる。門前の広場では毎日朝市を開催。所要30~60分(通訳ガイド要問合せ)。
平成21年(2009)、岐阜市制120周年を記念してJR岐阜駅前広場に登場。信長は「井口」と呼ばれていた当地を「岐阜」と改名し、天正4年(1576)まで約10年間岐阜を本拠地に「天下布武」を目指して戦いを続け勢力を拡大する一方、「楽市楽座令」など先進的な政策や制度でまちを発展させた。高さ約8mの台座にある約3mの黄金の織田信長公像は、市民の寄付で作られ表面は金箔3層張り。火縄銃と西洋兜を手に、マントを羽織った凛々しい姿が眩しい。
長良川の源流域にあたるひるがの高原は、水の流れが日本海側と太平洋側とに分かれる分水嶺地点。園内には分水嶺と大きく刻まれた石碑があり、公園内の池から流れ出る水が、一方は庄川から日本海へ、もう一方は長良川から太平洋へ流れていくことが分かる。春にはミズバショウやカタクリの花が咲き、周辺はシラカバ林が繁り散策も楽しめる。大自然と壮大なロマンを感じさせる公園だ。
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