
鎧埼灯台
天照大御神の鎮座する地を探し歩いていた倭姫命が、ここで鎧を脱いだという神話に由来する鎧埼。沖合は伊勢湾でも三大難所の一つに数えられるところであったため、この鎧埼灯台が早くから設けられた。灯台には入れないが、付近からの眺めは絶景で、岩礁に激しく波がぶつかり合うさまは壮観だ。
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天照大御神の鎮座する地を探し歩いていた倭姫命が、ここで鎧を脱いだという神話に由来する鎧埼。沖合は伊勢湾でも三大難所の一つに数えられるところであったため、この鎧埼灯台が早くから設けられた。灯台には入れないが、付近からの眺めは絶景で、岩礁に激しく波がぶつかり合うさまは壮観だ。
明治6年(1873)に、イギリス人技師ブライトンの指導で建てられた日本最古の総レンガ造りの洋式灯台。灯台内の見学はできないが、現在も海上の安全を守り続けている。日本の灯台50選にも選ばれている。
桑名宿は東海道五十三次の42番目の宿場。桑名藩の城下町でもあり、江戸後期には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒が立ち並ぶ大きな宿場だった。熱田神宮のある熱田宿とは伊勢湾の海路・七里の渡しで結ばれ、桑名の渡船場は伊勢神宮への入口としても賑わった。現在、七里の渡跡には伊勢神宮一の鳥居と常夜灯が立ち、近くには復元された航海の守護神を祭る蟠龍櫓や、旅館として営業している大塚本陣跡、脇本陣跡などが残る。七里の渡跡から桑名城跡(九華公園)の外堀沿いや街中を通る東海道を散策すれば、「歴史を語る公園」や道標、矢田立場などに往時の宿場町の面影が感じられる。
天正8年(1580)に織田信長の弟・信包[のぶかね]によって築かれた津城は藤堂高虎の入城によって大改修が行われ、明治維新まで藤堂氏の居城となった。現在は堀や櫓などが残り、庭園も造られている。平成29年(2017)4月には、公益社団法人日本城郭協会による「続日本100名城」にも選定された。
関宿のお隣・亀山宿は、亀山城のお膝元で、城下町として繁栄した。関宿ほど往時を偲ばせる町並みは残されていないが、武家屋敷跡などで面影にふれることができる。
芭蕉五庵の一つで、唯一現存する庵で、三重県指定文化財史跡になっている。門弟服部土芳[はっとりどほう]の草庵で、庵開きの祝いに芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞に来よ草の庵」にちなんで名付けられた。土芳はここで蕉風俳論「三冊子」を執筆した。
旧日本陸軍が、砲弾の着弾地点を観測するために建てられた建物。三島由紀夫の小説『潮騒』では新治が炎を飛び越えて初江を抱擁するクライマックスシーンの舞台となった。
慶長6年(1601)、徳川四天王の一人で、初代桑名藩主となった本多忠勝が、城下町割とともに城郭の拡張整備を行った。桑名城はかつて「扇城」「海道の名城」と称されたが、戊辰戦争の折に幕府方についたため、明治維新後に壊され現存しない。城跡は、昭和3年(1928)に九華公園として整備され、桜やツツジなどが美しく、市民の憩いの場として親しまれている。また園内には松平定綱(鎮国公)と松平定信(楽翁公)を祀る鎮国守国神社があり、付近には復元された蟠龍櫓(航海の守護神である龍の瓦を頂く二層の櫓。歌川広重『東海道五十三次 桑名』にも描かれた)がある。ペットは放し飼いにせず、マナーを守って利用。
東海道47番目の宿場町で交通の要衝として栄えた関宿。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定された1.8kmの町並みは、宿場町の旧態をとどめている。
松坂城は戦国武将、蒲生氏郷によって天正16年(1588)に築かれた。本丸とニノ丸に石垣を築き、かつては3層の天守に敵見、金の間、月見などの櫓が配されていた堅城だった。今はそびえ立つ石垣を残し、公園として整備され、御城番屋敷など松阪市街地が一望できる。桜や藤、イチョウなどが美しく、市民の憩いの場だ。
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