
鳥羽城跡
九鬼嘉隆が文禄3年(1594)に築城した鳥羽城は、九鬼水軍の本拠地でもあった。往時は総面積が10万平方m以上もあったとされている。大手門が海側に突出した珍しい造りで、この門が海への出入口になっていた。当時の面影を思わせるものは、石垣の一部のみとなったが、現在は「海の見える公園」として整備されている。
- 「中之郷駅」から徒歩5分/「鳥羽駅」から徒歩10分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
九鬼嘉隆が文禄3年(1594)に築城した鳥羽城は、九鬼水軍の本拠地でもあった。往時は総面積が10万平方m以上もあったとされている。大手門が海側に突出した珍しい造りで、この門が海への出入口になっていた。当時の面影を思わせるものは、石垣の一部のみとなったが、現在は「海の見える公園」として整備されている。
揖斐川河口、東海道の渡場跡。かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいた。現在も伊勢国の東の玄関口として「伊勢国一の鳥居」がたっている。
日本初の本格的な五十音順国語辞典『和訓栞』[わくんのしおり]を著した谷川士清の生家。「つし2階建て」の質素な邸宅は、安永4年(1775)に建築または改装されたと推測されている。国の史跡指定を受けている。
伊勢本街道は飛鳥時代から大和と伊勢を結ぶ重要な道であった。後江戸時代には宿場町や伝馬所などが除々に整備され、奈良・榛原を経て伊勢に至る最短コースであったことから多くの旅人などが往来したが、険しい山道も多く旅人にも恐れられていた。このように街道沿いは当時の面影偲ぶ家並み、道標などが残っている。日本の街道百選、日本の峠百選などに認定されるなど素晴らしい景観が広がっている。
発掘が続く広大な斎宮跡。斎宮が当地にあったことを示すシンボル的な森で、中には「斎王宮阯」の碑があり、日本遺産に認定されている。斎宮跡の発掘調査に基づいて周辺が整備され、公園となっている。
藤堂家に仕えた入交勘平が寛政年間(1789~1800)に拝領した武家屋敷で、その特徴である長屋門は三重県内で唯一現存するもの。展示室には各建物の説明パネルや古文書、入交勘平の具足などを展示。茅葺屋根の主屋と腰板張りの土蔵などが立つ屋敷風情に、中級武士の暮らしぶりが垣間見られる。平成18年(2006)から三重県指定有形文化財として公開。
聖武天皇の命を受け、行基が天平13年(741)に開いた国分寺、国分尼寺があった場所。国の史跡に指定されている。かつて南大門などが立っていたが、戦国の騒乱でほとんど焼失。現在は講堂の礎石の一部が残るのみ。隣接の鈴鹿市考古博物館で歴史的背景を理解し、ここを眺めると感慨ひとしおだ。
平成8年(1996)に日本最古の土偶が発見されて話題となった縄文時代草創期の遺跡。現在、竪穴住居などが復元され、高架下が史跡公園として公開されている。
芭蕉生誕300年を記念し、昭和17年(1942)に上野公園内に建てられた。ユニークな形は芭蕉翁の旅姿を表す。丸い屋根は笠、八角形のひさしは袈裟、柱は行脚する翁の杖、俳聖殿の額は顔をイメージしているという。
時代劇で有名な「伊賀越仇討」の舞台となった所。ことの発端は寛永7年(1630)、備前岡山藩の渡辺源太夫[わたなべげんだゆう]が河合又五郎[かわいまたごろう]に惨殺されたことにある。実弟を殺された渡辺数馬[かずま]は、義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、4年後の11月7日の早朝、死闘ののち、ここで又五郎一行を討ち果たし、見事本懐を遂げる。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。