
長島城跡
至徳1年(1384)に伊勢国司北畠顕能[きたばたけあきよし]の家臣、加藤甚左衛門[かとうじんざえもん]が築城。現在は城跡を示す石碑だけが残る。標高100mほどの丘にあり、熊野灘や長島の町並みが一望できる。
- 「紀伊長島駅」から徒歩16分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
至徳1年(1384)に伊勢国司北畠顕能[きたばたけあきよし]の家臣、加藤甚左衛門[かとうじんざえもん]が築城。現在は城跡を示す石碑だけが残る。標高100mほどの丘にあり、熊野灘や長島の町並みが一望できる。
平成8年(1996)に日本最古の土偶が発見されて話題となった縄文時代草創期の遺跡。現在、竪穴住居などが復元され、高架下が史跡公園として公開されている。
幕末の頃に建てられた町家を公開。江戸時代の大名火消し装束や錦絵など、代々伝わる品を展示している。特に彫刻寄せ木作りの角田半兵衛夫婦坐像は、幕末の彫刻師で生人形の元祖ともいわれる安本亀八の作。書院造りの座敷では名張出身の江戸川乱歩や初瀬街道など、名張の歴史を題材にした歴史影絵劇も上演(要予約)。
7世紀後半から8世紀前半にかけて、大来皇女[おおくのひめみこ]が父・天武天皇のために建立した昌福寺[しょうふくじ]の跡と推定されている。跡地に立つ夏見廃寺展示館には、仏画の彫られたせん仏や軒瓦など、数多くの出土品が展示されている。
時代劇で有名な「伊賀越仇討」の舞台となった所。ことの発端は寛永7年(1630)、備前岡山藩の渡辺源太夫[わたなべげんだゆう]が河合又五郎[かわいまたごろう]に惨殺されたことにある。実弟を殺された渡辺数馬[かずま]は、義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、4年後の11月7日の早朝、死闘ののち、ここで又五郎一行を討ち果たし、見事本懐を遂げる。
芭蕉生誕300年を記念し、昭和17年(1942)に上野公園内に建てられた。ユニークな形は芭蕉翁の旅姿を表す。丸い屋根は笠、八角形のひさしは袈裟、柱は行脚する翁の杖、俳聖殿の額は顔をイメージしているという。
かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門[からめてもん]を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの西棟一番手前(松阪城より)一戸が内部を一般公開している。
江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅で、国の特別史跡に指定されている。宣長が2階の物置を改造して4畳半の簡素な書斎を造ったのは53歳の時。鈴屋の命名は宣長自身で、研究に疲れると柱掛の鈴を振って音色を楽しんだという。
藤堂家に仕えた入交勘平が寛政年間(1789~1800)に拝領した武家屋敷で、その特徴である長屋門は三重県内で唯一現存するもの。展示室には各建物の説明パネルや古文書、入交勘平の具足などを展示。茅葺屋根の主屋と腰板張りの土蔵などが立つ屋敷風情に、中級武士の暮らしぶりが垣間見られる。平成18年(2006)から三重県指定有形文化財として公開。
松坂城は戦国武将、蒲生氏郷によって天正16年(1588)に築かれた。本丸とニノ丸に石垣を築き、かつては3層の天守に敵見、金の間、月見などの櫓が配されていた堅城だった。今はそびえ立つ石垣を残し、公園として整備され、御城番屋敷など松阪市街地が一望できる。桜や藤、イチョウなどが美しく、市民の憩いの場だ。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。