
崇福寺跡
静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
- 「滋賀里駅」から徒歩19分/「南滋賀駅」から徒歩23分
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静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
奈良時代、相撲界で現在の横綱にあたる最手役[さいてやく]として活躍し、日本初の行司として召し抱えられた志賀清林の功績を記念して造られた公園。清林は相撲四十八手の基礎を創案した人物と伝えられ、約3万平方mの公園には、記念碑や相撲場、子供用の遊具などが整備されている。
延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
幕末の大老井伊直弼が17歳から32歳までを過ごした屋敷。彦根藩第11代藩主直中の14男として生まれた直弼は、わずか300俵の捨扶持で部屋住の一生を終えるはずだった。埋木舎とは、直弼が花の咲かない埋もれ木と同じ身の上だけれども自分にはなすべき技があるといって名付けた舎号。
旧彦根藩・井伊家35万石の居城。元和8年(1622)、井伊直継・直孝によって、約20年の歳月をかけ完成。琵琶湖から直接引き込んだ堀をめぐらし、小高い山に立つ。3層3階の天守(国宝)を中心に、長浜城から移築されたといわれる天秤櫓(国指定重要文化財)、城内の合図のための太鼓が置かれていた太鼓門櫓(国指定重要文化財)、近江八景を模したといわれる大名庭園の玄宮楽々園(国指定名勝)などみどころが数多く残る。天守の内部は見学可。最上階からは琵琶湖が一望のもとに見渡せる。
賤ケ岳リフトは滋賀県長浜市の自然の絶景が一望できるリフト。京都、大阪、名古屋からも近くアクセス良好で、賤ケ岳リフトで6分登ると、琵琶湖や余呉湖、竹生島や伊吹山が一望できる絶景が待っている。戦国時代の英雄たちが、天下を夢見て駆け抜けた地、湖北。かつて、賤ケ岳の戦いが行われた、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の決戦の舞台で、今は賤ケ岳古戦場として歴史ファンがたくさん訪れ、歴史の香りも残る場所になっている。山々に吹く爽やかな風を感じながら、美しい自然の風景と思い出を心に刻もう。
賤ヶ岳の合戦で柴田勝家の焼討ちに遭った観音像が、江戸時代に造られた鞘仏の中で大切に守られてきた。冷水寺に祀られているこの像の歴史を伝えるため、地元の人々が手作りしたのが、胎内仏資料館だ。胎内仏の写真や春日神社の神像写真などをパネルで展示している。
浅井氏の居城として栄えた小谷城。日本五大山城の一つとして知られ、今もなお山上には城の遺構が残り、ふもとの清水谷には浅井氏や家臣団の屋敷があったという。国の史跡に指定されている。
元亀元年(1570)、約3万の兵力を誇った織田信長・徳川家康連合軍に対して、1万8000人の浅井長政・朝倉景健[かげたけ]連合軍が挑んだ。姉川付近で激闘が繰り広げられ、結果は信長の勝利に終わった。現在の野村橋が架かる姉川一帯は血に染まったといわれ、今も供養塔が残る。多数の戦死者を出した浅井方はこの戦いの後、天正元年(1573)の小谷城落城とともに終焉を迎えることになる。
石田会館の東側にある石田神社には、三成一族と家臣の供養塔をはじめ、三成自筆の和歌や三成の辞世の碑が立つ。
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