
崇福寺跡
静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
- 「滋賀里駅」から徒歩19分/「南滋賀駅」から徒歩23分
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静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
旧草津川トンネルの南側脇にある石造りの道標。旧東海道と旧中山道との分岐・合流点にあたり、街道を往来する諸国の飛脚仲間らの寄進によって文化13年(1816)に設置された。
延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
水口城は徳川3代将軍家光の京都上洛にあわせ、寛永11年(1634)に東海道水口宿の西に築城。その美しい水堀から碧水城[へきすいじょう]と呼ばれた。現在は出丸部分に角櫓[すみやぐら]が修景され、水口城資料館として公開している。
信楽の長野地区にある窯元が点在する3つの坂道が、「ろくろ坂」「ひいろ壺坂」「窯場坂」と名付けられている。それぞれの道路上には、陶板の道しるべが埋め込んである。また散策路には観光客にわかりやすいようにと案内看板が設けられている。登り窯や無造作に積み上げられた陶器など、伝統が残る町並みやそこで信楽焼を製造する窯元の日常が楽しめる。
紫香楽宮は、奈良時代中ごろに聖武天皇によって造営された都で、この地で大仏建立の詔が出された。大仏は紫香楽宮では完成せず、奈良の平城宮に還都後、改めて東大寺で着手し完成した。現地には、往時を偲ばせる寺院の礎石が200以上残る。宮殿があった宮町地区は、三方を山に囲まれた地形で、当時と変わらない景色を見ることができる。近くに出土遺物を展示する施設がある。
江戸時代、東海道を往来した旅人のために和中散[わちゅうざん]という薬を販売していた、「ぜさい」の店鋪と屋敷を公開。大名や公家の休憩所も兼ねていたという建物で、格調高い玄関や欄間、小堀遠州作と伝わる池泉式庭園(名勝)などが残る。庭園のカキツバタは5月20日頃から、皐月は6月初め頃が見頃(気候により多少変更あり)。
甲賀流忍者甲賀五十三家の筆頭格「望月出雲守」の住居として元禄年間に建てられた建物。忍者自身のからくりのある住居として、日本で唯一現存する歴史的に価値のある本物の忍術屋敷。内部には、人間心理をうまくついたからくりが多く施され、甲賀忍術の奥義を記した甲賀流伝書、手裏剣等、さまざまな武器道具類が展示されている。戦乱の世に実在した忍者たち、その真の世界を本物の忍術屋敷で体感してみよう。からくりをあやつったり、鉄製の手裏剣投げどの忍者体験もできる。
江戸時代には、「京立ち石部泊り」といわれ、東海道五十三次の宿場町として賑わった石部宿。入口にあたる関所を抜けると、石畳沿いに茅葺屋根の民家や茶店、商家、旅籠などが立ち並ぶ。建物内には、井戸やかまどなど使われていた生活道具も展示され、当時の生活の一端をうかがい知ることができる。街道の歴史を紹介する東海道石部歴史民俗資料館も併設。
聖徳太子が建立したと伝わる古刹。平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集めた。参道の石段が険しいことで知られ、西国三十三カ所の中でも最大の難所といわれてきたが、現在は車で山頂近くまで行ける。平成5年(1993)に本堂・本尊が焼失し、平成16年(2004)落慶。インド政府の特別許可で輸入した白檀香木で造立した、丈六千手観音座像が現在の本尊だ。寺の奥には、戦国武将佐々木六角氏の居城・観音寺城跡がある。
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