
新町通り
近江八幡の町は、天正13年(1585)に豊臣秀次が開いた八幡山城の城下町として築かれたのが始まり。八幡堀をはさんだ北側が武士の居住地域、南側は町人の町。町人が住む地域はさらに西が商業地域、東が職人地域に分けられた。現在の新町通りはかつての商業地域。畳表などを扱う豪商の邸宅だった、旧西川家住宅などが公開されている。邸宅には卯建があがり、家並みの塀越しに松がのぞくなど、情緒ある風景が続く。重要伝統的建造物群保存地区に選定。
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近江八幡の町は、天正13年(1585)に豊臣秀次が開いた八幡山城の城下町として築かれたのが始まり。八幡堀をはさんだ北側が武士の居住地域、南側は町人の町。町人が住む地域はさらに西が商業地域、東が職人地域に分けられた。現在の新町通りはかつての商業地域。畳表などを扱う豪商の邸宅だった、旧西川家住宅などが公開されている。邸宅には卯建があがり、家並みの塀越しに松がのぞくなど、情緒ある風景が続く。重要伝統的建造物群保存地区に選定。
文政10年(1827)から天保11年(1840)にかけて建築された近江蚊帳の工場を、明治時代に小学校や役場として改築。平成9年(1997)までは図書館としても利用された。館内には昔の近江八幡の文化や暮らしに関する展示もある。
聖徳太子が建立したと伝わる古刹。平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集めた。参道の石段が険しいことで知られ、西国三十三カ所の中でも最大の難所といわれてきたが、現在は車で山頂近くまで行ける。平成5年(1993)に本堂・本尊が焼失し、平成16年(2004)落慶。インド政府の特別許可で輸入した白檀香木で造立した、丈六千手観音座像が現在の本尊だ。寺の奥には、戦国武将佐々木六角氏の居城・観音寺城跡がある。
西川利右衛門家は約300年にわたり活躍した、近江八幡を代表する豪商の一人。京風で統一された造りは質素ながらも洗練された趣があり、当時の繁栄ぶりを伝えている。国指定重要文化財。
織田信長の居城。安土山に天正4年(1576)に築城を開始し、天正7年(1579)に信長が入城した。外観5層内部7階(地上6階地下1階)の華麗な天主をもっていたとされる城は、本能寺の変の数日後、完成からわずか3年で焼失。現在は、天主台、本丸、二の丸などに石垣が残るのみだが、平成元年(1989)から20年にわたり発掘調査・環境整備が行われ、国の特別史跡に指定されている。登り口から天主跡までは徒歩約30分。
近江商人をテーマにした小説を発表し、『草いかだ』が昭和10年(1935)の第1回芥川賞候補として選ばれたほか、池谷賞や野間文芸賞を受賞した外村繁氏の生家。父・吉太郎は生粋の近江商人で、東京の日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開いて活躍した。家族が生活した母屋や蔵が残る。外村繁の直筆原稿や書簡を展示した外村繁文学館も併設している。
幕末の大老井伊直弼が17歳から32歳までを過ごした屋敷。彦根藩第11代藩主直中の14男として生まれた直弼は、わずか300俵の捨扶持で部屋住の一生を終えるはずだった。埋木舎とは、直弼が花の咲かない埋もれ木と同じ身の上だけれども自分にはなすべき技があるといって名付けた舎号。
延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
天正9年(1581)、信長の命により、イタリア人宣教師オルガンチノが安土城の城下町に創建した日本最初のキリシタン神学校跡。現在では、安土城の外濠沿いに佇む公園として整備されている。
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