
藤樹書院跡
江戸時代の儒学者で、わが国陽明学の祖である中江藤樹[なかえとうじゅ]の居宅・私塾跡(史跡)。正保5年(1648)に建てられたが、明治時代に焼失し、ほどなく再建された書院が残る。
- 「安曇川駅」から徒歩20分
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江戸時代の儒学者で、わが国陽明学の祖である中江藤樹[なかえとうじゅ]の居宅・私塾跡(史跡)。正保5年(1648)に建てられたが、明治時代に焼失し、ほどなく再建された書院が残る。
伝承によると、天文22年(1553)、近江半国守護職であり観音寺城主であった佐々木六角義賢[ささきろっかくよしかた]が、母の菩提を弔うため建立したとされる。しかし、冷泉為広[れいぜいためひろ]の『為広越後下向日記』延徳3年(1491)3月条に記載がある。さらには永享8年(1436)境界争い文書にも載る石仏群。室町時代の作風を示す地元花崗岩製の阿弥陀如来坐像で、高さは約1.6m。現在は48体のうち33体がここに残る。
築180年の江戸時代の商家や蔵を改装した観光施設。1~8号館まであり食事処も充実。滋賀観光スポット、体験スポットとして人気。
文化12年(1815)に初代藤井善助が行商後で始業、「スキー毛糸」の製造等で成功した大商人藤井彦四郎邸。屋敷は敷地総面積8155平方m、建物面積710平方mに及び、特に庭園は彦四郎自身の構想で珍石・名木を配し、琵琶湖を模した池を設け雅趣に富み雄大だ。建物は、豪華な総ヒノキ造りの客殿と彦四郎の生家を移築した質素な本屋等があり、その生き様を感じる事が出来る。また屋敷内では近江商人に関する歴史的資料や生活文化資料も展示している。
昭和初期、朝鮮半島や中国大陸などで20数店舗の百貨店を経営し、「百貨店王」と称された三中井一族の本宅。約1000平方mの敷地に木造2階建の本宅や蔵、庭園がある。蔵では小幡人形や全国の土人形を展示している。
近江商人とは、近江(現在の滋賀県)に本拠を置いて全国で商業活動をしていた人々のこと。五個荘商人は江戸後期ごろから昭和戦前期にかけて活躍した。商人の数が多いこともあり、明治時代には呉服や麻布などの繊維製品を中心に商いを進めて商業範囲を広げていった。そんな五個荘商人の屋敷群が、五個荘金堂[こんどう]地区にあり、3軒が一般公開され、近江商人の暮らしぶりがうかがえる。
近江商人をテーマにした小説を発表し、『草いかだ』が昭和10年(1935)の第1回芥川賞候補として選ばれたほか、池谷賞や野間文芸賞を受賞した外村繁氏の生家。父・吉太郎は生粋の近江商人で、東京の日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開いて活躍した。家族が生活した母屋や蔵が残る。外村繁の直筆原稿や書簡を展示した外村繁文学館も併設している。
東京や横浜、京都などで呉服などの販売を手がけ、明治時代に全国の長者番付にも名を連ねた豪商・外村宇兵衛の本宅。往時には母屋や納屋、米蔵など10数棟の建物があった。屋敷の一部は取り壊されたが、東近江市によって復元された。
昭和12年(1937)に近江商人古川鉄治郎氏の寄贈、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられた小学校。当時は「東洋一の小学校」「白亜の教育殿堂」といわれ、平成25年(2013)には国の登録有形文化財に指定。アニメの聖地・映画のロケ地としても愛され、多くの人が訪れている。
昭和5年(1930)の建築。平成13年(2001)に廃校になったが、アニメ『中二病でも恋したい』に登場する高校のモデルになった学校で、多くのドラマや映画の撮影場所になっている。土・日曜、祝日のみ見学可能。
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