
丹波亀山城跡
明智光秀が丹波平定時に築城し、亀岡は城下町として次第に発展。その後、江戸初期に五重の天守に改築。その美しさから亀宝城とも呼ばれていたが、現在は苔むした石垣と内堀が往時を物語るのみ。城跡を含む一帯は宗教法人大本[おおもと]の敷地内となっているため、見学は当日受付に申し出ること。
- 「亀岡駅」から徒歩7分
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明智光秀が丹波平定時に築城し、亀岡は城下町として次第に発展。その後、江戸初期に五重の天守に改築。その美しさから亀宝城とも呼ばれていたが、現在は苔むした石垣と内堀が往時を物語るのみ。城跡を含む一帯は宗教法人大本[おおもと]の敷地内となっているため、見学は当日受付に申し出ること。
酒造業、廻船業、糸問屋など幅広く商売をする一方で、宮津藩の財政や町政にも深く関わっていた豪商の屋敷。美しい白壁の風格ある建物で、茶室や座視観賞式庭園もある。主屋は外壁・柱や垂木を壁土や漆喰で塗り込めた大壁造りを用いて、徹底した防火構造になっている。カフェを併設し、“楽しめる文化財”として音楽ライブや踊り披露会など各種発表会や講演会などの会場、フォトウェディングや七五三、各種撮影会等にも利用できる。
幻の都といわれていた長岡京は、延暦3年(784)11月から約10年間、都として栄えた。天皇が政治を司った長岡宮は、都の北端の皇居(内裏)や国会議事堂(大極殿、朝堂院)、二官八省の役所がおかれた重要な宮殿のある区画。発掘された木簡などの遺物は、向日市文化資料館(電話:075-931-1182)に展示されている。大極殿跡は昭和40年(1965)、全国初の史跡公園に指定され、平成22年(2010)には朝堂院西第四堂跡に多機能トイレを併設した案内所がオープン、文化財案内員が駐在し、長岡京の歴史や見どころをガイドしている。
直径70mの大型円墳を整備した歴史公園。1500年前の王の墓といわれ、発掘結果に基づき築造当初の姿に復元された。副葬品は綾部市資料館で見られる。
国指定史跡である丹後国分寺跡は、京都丹後鉄道天橋立駅の対岸にあり、天橋立と阿蘇海を一望できる台地に位置されている。南北朝時代に再建された金堂跡及び塔跡の基壇と礎石計51個、そして中門跡の礎石が残されている。奈良時代の軒瓦が発見されているほかは、寺域をはじめ創建時の様子を知る資料はまだ多くない。雪舟筆天橋立図(16世紀初め頃)に描かれている国分寺は、中世に再建された姿である。
現代では珍しくなった茅葺き屋根の民家が数多く立ち並び、その美観から平成5年(1993)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された美山町地区の集落・北。家屋約50戸のうち39棟が北山型の入母屋造、茅葺き屋根の民家で江戸末期の建築。懐かしい里山の雰囲気が漂う茅葺き屋根の家々は、今も人々が暮らす現役の住居。年に2回行われる一斉放水は一見の価値あり。地区内には茅葺き屋根民家で民宿を営業している家もあり、宿泊するのもまた一興。
中央に地蔵菩薩、向かって左に阿弥陀如来、右に十一面観音という珍しい配置。地蔵菩薩の額には白毫を嵌めた跡が残っている。弘長2年(1262)の作で、当尾の石仏最古。
釈迦寺跡に立つ。地蔵と呼ばれているが定印を結ぶ阿弥陀でこの辺の在銘石仏で最古、弘長2年(1262)作。首が切れているわけではなく、首のくびれが深くて切れているように見えるから、また、昔この北方にあった処刑場に置かれていたといわれることから、こう呼ばれる。
古来より絹織物の産地だった与謝野町加悦地区には、江戸期から昭和初期の建物が今なお残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された「ちりめん街道」がある。その街道沿いに文久3年(1863)に建てられた屋敷。尾藤家は代々大庄屋を務め、生糸ちりめん問屋として、また北前船をもつなどして繁栄した。
少し左に傾いた岩に彫られた穏やかにほほえむ阿弥陀三尊像。高さ約80cmの阿弥陀如来の両脇に観音、勢至菩薩が刻まれる。横には「ねむり仏」もある。永仁7年(1299)伊未行作。
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