
首切地蔵
釈迦寺跡に立つ。地蔵と呼ばれているが定印を結ぶ阿弥陀でこの辺の在銘石仏で最古、弘長2年(1262)作。首が切れているわけではなく、首のくびれが深くて切れているように見えるから、また、昔この北方にあった処刑場に置かれていたといわれることから、こう呼ばれる。
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釈迦寺跡に立つ。地蔵と呼ばれているが定印を結ぶ阿弥陀でこの辺の在銘石仏で最古、弘長2年(1262)作。首が切れているわけではなく、首のくびれが深くて切れているように見えるから、また、昔この北方にあった処刑場に置かれていたといわれることから、こう呼ばれる。
天平12年(740)10月、聖武天皇は平城京を離れて各地を行幸し、同年12月恭仁宮に入り遷都を宣言。恭仁宮は足掛け5年間の都だったが、その間に国分寺・国分尼寺建立の詔(741年)、大仏造立の詔(743年)、墾田永年私財法(743年)の発布がされて、歴史上重要な役割を担ったといえる。現在は恭仁宮跡であると同時に山城国分寺跡でもあり、大極殿(金堂)礎石と七重塔礎石が、春には桜、秋にはコスモスで彩られて残っている。近くにはくにのみや学習館(営業時間:9~17時、月曜定休、電話:0774-76-9202)があり、関連資料・ビデオ等を観覧できる。
明智光秀が丹波平定時に築城し、亀岡は城下町として次第に発展。その後、江戸初期に五重の天守に改築。その美しさから亀宝城とも呼ばれていたが、現在は苔むした石垣と内堀が往時を物語るのみ。城跡を含む一帯は宗教法人大本[おおもと]の敷地内となっているため、見学は当日受付に申し出ること。
火伏せの神を祭る愛宕神社への献灯籠。上に行くほど細くなり、にょきっと立つ姿はなんともユーモラス。火袋をほっただけの簡素な形は、現代彫刻をも思わせる。
笠置へ続く古道の辻にある岩に線刻され、笠置寺本尊の弥勒磨崖仏を模したものと伝わる。目を凝らすと、体を左方に傾けた姿が見える。わらい仏を彫った伊末行文永11年(1274)の作である。
少し左に傾いた岩に彫られた穏やかにほほえむ阿弥陀三尊像。高さ約80cmの阿弥陀如来の両脇に観音、勢至菩薩が刻まれる。横には「ねむり仏」もある。永仁7年(1299)伊未行作。
中央に地蔵菩薩、向かって左に阿弥陀如来、右に十一面観音という珍しい配置。地蔵菩薩の額には白毫を嵌めた跡が残っている。弘長2年(1262)の作で、当尾の石仏最古。
現代では珍しくなった茅葺き屋根の民家が数多く立ち並び、その美観から平成5年(1993)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された美山町地区の集落・北。家屋約50戸のうち39棟が北山型の入母屋造、茅葺き屋根の民家で江戸末期の建築。懐かしい里山の雰囲気が漂う茅葺き屋根の家々は、今も人々が暮らす現役の住居。年に2回行われる一斉放水は一見の価値あり。地区内には茅葺き屋根民家で民宿を営業している家もあり、宿泊するのもまた一興。
直径70mの大型円墳を整備した歴史公園。1500年前の王の墓といわれ、発掘結果に基づき築造当初の姿に復元された。副葬品は綾部市資料館で見られる。
織田信長の家臣・稲葉一族の子孫で、江戸時代~昭和初期にかけて糀の製造業や廻船業で栄えた稲葉家の屋敷を公開している。母屋は12代目が5年の歳月を費やして建てた平入桟瓦葺き切妻造りの2階建ての建物で国登録の有形文化財。13代目の市郎右衛門は私財を投じて旧国鉄の久美浜~豊岡間を開通させたことで知られる。
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