
滝坂の道
柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
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柳生街道の一部で、春日山と高円山の間を流れる能登川沿いに石切峠まで通じている石畳の坂道をいう。江戸時代に奈良奉行によって敷かれた2.5kmにわたる石畳の道の起点には、石の鳥居が立っている。旧柳生街道の一部にあたり、柳生の里と奈良の町をつなぐ唯一の道として、米、薪木、日用品を馬の背に積んだ人々が往来していた。また、柳生の道場を目指す武芸者が歩いた道でもある。
江戸中期に建てられた農家。入母屋造で軒が低く、覆い被さるような茅葺き屋根が印象的だ。内部は東半分が土間で、西半分の居室部は前方に座敷、後方に台所と納戸を配した三間取り。古い形式を留めた小型住宅の例として貴重。
「米忠[こめちゅう]」の屋号で、代々金物商と肥料商を営んでいた家。本瓦葺きで18世紀中ごろの建築とみられている。土間には煙り返しが付くなど農家風の印象。太い格子や蔀戸[しとみど]など建具もすばらしい。
飛鳥時代の石造物。左右に二つの顔があり人の心の善悪二相を表したものと伝えられている。橘境内には重要文化財7点所有。本尊聖徳太子35歳坐像は国指定重要文化財。
仏教に帰依し、天平文化を開花させた聖武天皇の御陵。転害門から一条通りを西へたどり、石橋の法蓮橋を渡ると、参道前へ出る。玉砂利を敷き詰めた参道の先に拝所がある。右手奥には光明皇后陵がある。転害門から徒歩15分。
猿目橋バス停から旧道の坂道を少し下った所に、道をふさぐように立つ。人の背丈ほどもある大きな石に6体の地蔵が横一列に浮彫りされた、地元の大切な守り神だ。
永久年間(1113~1118)、鳥羽天皇の勅願で創建されたと伝わる。坊舎50、堂宇20余りを数えた大寺院で、『太平記』によると延元元年・建武3年(1336)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したという。しかし明治の廃仏毀釈で廃寺となり、伽藍はことごとく消滅、寺域には池が残るだけ。堤の桜が美しく、池畔には芭蕉句碑「うち山やとざましらずの花ざかり」が立つ。
謀反の嫌疑を掛けられ抹殺された長屋王の変で知られる長屋王は、政界の実力者だが、佐保楼と呼ばれた邸宅(別邸?)は文化サロンでもあり、自身も懐風藻や万葉集に詩歌を残している。仏教に深く帰依し、中国に1000の袈裟を送ったとも伝える。その際に付けた漢詩「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」が鑑真に渡日を決意させる一因となったという。現イトーヨーカ堂奈良店あたりに広大な敷地があったことが出土木簡からわかっている。
黒髪山にある。文武天皇から聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に即いた母娘の女帝の陵墓。どちらも南に拝所がある。
平成10年(1998)登録の世界遺産。奈良時代の710年に首都・平城京が置かれて以来、現在もなお奈良市内に残る当時の遺構や寺院のうち、東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城京跡、春日山原始林の8つが構成資産として登録されている。東アジアでも、奈良のように宮殿の遺構と木造建築群、さらに山や森といった自然を含めて、文化的景観が守られている地域は珍しく、日本の国家や文化の基礎が形成された時代の様子を伝えている。また、この都市に花開いた文化を知ることができる貴重な遺産であるとともに、平城京の都市計画や仏教美術などは、中国や朝鮮との交流によってもたらされたもので、2国との交流により日本の文化が発展したことを物語っている。
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