若桜郷土文化の里
移築復元した町内の文化財建造物「三百田氏住宅」「若桜町歴史民俗資料館」「永福寺山門」や「山村文化伝習施設たくみの館」「若桜森林公園」を併設する。森林公園の遊歩道を登ると、四阿[あずまや]からは国指定史跡若桜鬼ケ城跡[わかさおにがじょうあと]のある鶴尾山[つるのおやま]や若桜宿の街並みが一望できる。
- 「若桜駅」から徒歩9分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
移築復元した町内の文化財建造物「三百田氏住宅」「若桜町歴史民俗資料館」「永福寺山門」や「山村文化伝習施設たくみの館」「若桜森林公園」を併設する。森林公園の遊歩道を登ると、四阿[あずまや]からは国指定史跡若桜鬼ケ城跡[わかさおにがじょうあと]のある鶴尾山[つるのおやま]や若桜宿の街並みが一望できる。
大神山神社奥宮への石畳の参道から標識に従って右手の横道に入ると、左右から岩壁が迫る南光河原に出る。この場所は八大竜王が開いたと伝えられ、岩壁そのものを神門にみたて、御金門ともよばれる。大山北壁を頭上に仰ぐ絶好の撮影ポイントだ。
山中鹿介は戦国時代の武士。主君尼子氏再興のために尽力したが、天正6年(1578)、毛利との戦いに敗れ、安芸の国に護送される途中で非業の死をとげた。鹿野城を築いた亀井茲矩は鹿介の義弟にあたる。茲矩は鹿介の死から30年後、慰霊のために菩提寺として幸盛寺を建立し、墓碑を立てた。ちなみに幸盛寺の名は、鹿介の正式名である鹿介幸盛[ゆきもり]からきている。
若桜郷土文化の里内にある、元禄7年(1694)に建てられた茅葺屋根の建物。元は町内の吉川集落にあった庄屋の家で、古文書には819人の強力[ごうりき]が1年以上かけて完成させたと記録されている。内部は広間型三間取りで、囲炉裏が切ってある。鳥取県指定保護文化財で、「県民の建物100選」にも選ばれている。
江戸時代、鳥取から畿内へ抜ける智頭往来の宿場として栄えた。智頭宿には、今も趣ある民家や古社寺が続く古い町並みが残る。40余りの部屋と、7棟の土蔵をもつ石谷家住宅(料金:500円、時間:10~17時、休み:水曜、祝日の場合は翌日、4~11月は無休、電話:0858-75-3500、因幡街道ふるさと振興財団)は、国指定重要文化財にも登録されている大規模な近代和風建築。豪壮な梁組みをもつ土間や、池泉庭園、茶室などは必見。
加茂川の京橋のたもとに立つ、江戸時代に海運業を営み、地元の開発にも私財を投じたという回船問屋・後藤家の邸宅。江戸中期に建てられた主屋と一番蔵、江戸後期の二番蔵は国指定重要文化財。主屋の切妻屋根に本瓦、千本格子に家紋入の白壁など、栄華を偲ばせる凝った造りに当時の財力が感じられる。現在も住居として利用されており、見学は外観のみ。
江戸時代、米子藩の城下町として、また山陰随一の商都として栄えた米子。その江戸から明治にかけての面影が残るエリア。国重要文化財に指定されている後藤家などの商家や白壁の土蔵がある加茂川沿いの通り、9つの寺が並ぶ寺町通りなど、下町風情を満喫できる。桜の季節は特に良く、加茂川・中海遊覧船に乗れば川上からの風情も格別。
弥生時代から中世に造られた巨大複合遺跡。遺跡で見つかった埴輪が、本来古墳ではない場所で発見されたことで注目される。現在、1号墳が移転復元されている。
浜村海岸を見下ろせる魚見台に立つ歌碑。「何の因果で貝殻こぎ習うた カワイヤノー、カワイヤノー 色は黒うなる 身はやせる」で知られる『貝がら節』は、浜村の漁師たちが歌い継いだ作業唄。鳥取県を代表する民謡だ。浜村海岸の沖合いにはホタテ貝が周期的に群れをなしてやってくるが、かつてその漁は舟を漕ぎながら鉄のジョレンを引くという過酷なものであった。その櫓こぎの苦労を少しでも紛らわすために自然に生まれたせいか、貝がら節にはリズミカルでいながらどこか哀愁が漂う。浜村駅前にもホタテの台座の上で貝がらを背負う、子供たちのモニュメントが立っている。
東郷湖と日本海の間を隔てる小高い丘には、古墳が多数点在。その一帯に芝、桜、ツツジなどを植えて整備したのが馬ノ山公園で、歌碑の点在する遊歩道もある。海と砂丘を一望する頂上には、遺跡からの出土品を展示したハワイ風土記館がある。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。